「預言されたキリスト。」 イザヤ53章3節~12節

原福音と言われるのが、「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3・15)です。女の子孫とは、乙女マリヤから生まれたイエス様であり、「かかとを打つ」とは、イエス様を十字架に付けたことであり、「彼はおまえの頭を打ち」とは、「その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。」(黙示録12・9)という最後の裁きを意味します。
 詩篇22篇は、キリストの受難が明確に預言されています。「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」(1)は、イエス様の十字架上の叫びです(マタイ27・46)。7節と8節はマルコ15・29.30にあり、「彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。」(18)は、ヨハネ19・23.24に記されています。このような残虐な仕打ちを受けながら、「主を恐れる人々よ 主を讃美せよ。」(22・23)と書かれ、「主は 貧しい人の苦しみを蔑まず 厭わず 御顔を彼から隠すことなく 助けを求めたとき 聞いてくださった。」(22・24)と預言されます。そして、「主の義を告げ知らせます。」(31)で締めくくられます。
 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(イザヤ7・14)も、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。…主権はその肩にあり、…ダビデの王座に着いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て」(イザヤ9・6.7)もイエス様の預言として成就しています。
 ミカ5章には「 ベツレヘム、エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、私のために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から永遠の昔からの定めである。」(5)と預言されています。
 ゼカリヤの預言「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でロバに乗られる。それも、雌ロバの子の子ロバに。」(9・9)はマタイ21章5節に成就しています。
 ダニエル9章には、エルサレムの復興命令(紀元前457年)が出てから483年後(27年、キリストの公的活動開始)に「油注がれた者、君主が来る」(9・25)こと、更に「油注がれた者は断たれ」(26)とその死が預言されています。

このようにキリストについての預言は詳細で、反論しようがありません。しかし、神を信じない人にとっては、どうでもよいことで、論証したからといって信じるものではありません。しかし、裁きの時には、これらの預言があり、神が愛をもって働きかけていたのに、なぜ無視をしたのかと不信仰を裁かれることになります。つまり、預言は、神を信じる者にとって確信を与え、その教えの真理を確認するものなのです。
 今日の聖句は、壮絶なメシアの姿です。多くの人が予想するイエス様の姿は、壮健で優しいものです。この「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。」(2.3)という姿に、開拓期の私は慰めを得ました。伝道熱心な故に攻撃非難された時に、4節から言葉は、「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(コロサイ1・24)のパウロの言葉と共に、私を励ましました。今は、おざなりになっている自分の伝道姿勢を恥じています。
 「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」(6)。父なる神はそれを覚悟されて、「私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(6)。「それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(4)そういう自分勝手で、苦労や責任を嫌がる罪人が人間なのです。
 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(5)。信仰生活で自分の都合や状況を言い訳にして、怠惰であることは、このイエス様の命懸けの犠牲をわからず、また救いを真に受けていないかと思われます。
 イエス様の十字架は、「自分のいのちを代償のささげ物と」(10)して私たちを救ってくださったのです。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(11)私たちの魂の代価が、安くはないことをしっておられるからです。
 信仰を持つこと、保つことに犠牲を払おうとしていない人々がいることは残念です。御子が払った犠牲を、受け取っていないのです。それでも、「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(12)。人は、神に背き続けています。それでも、神は私たちを執り成してくださるのです。しかし、最後の時、御子は裁き主として来られ、「彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20・12)

イザヤ53章3節~12節

  • 53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
  • 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
  • 53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
  • 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
  • 53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
  • 53:8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
  • 53:9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
  • 53:10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
  • 53:11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
  • 53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」