後ろの戸を閉じ身を隠せ。イザヤ26章15~21節

不況はひどくなり、日本の国力はどんどん衰えている。犯罪は増え凶悪化している。それでも人々は、欲望の満足を求め金銭を追い求めている。今日は二十節の「後ろの戸を閉じよ」という言葉に焦点を当てたい。この言葉で思い出すのはノアの箱舟である。また、出エジプトの前の過ぎ越しの事件である。

  「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることが見な、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)

  神は世界を水で滅ぼすことを決め、義人のノアにそのことを明らかにした。ノアは人々のあざ笑う中で巨大な箱舟を作り続けた。

 この「後ろの戸を閉じる」という言葉は現代日本に生きる人々にとって的を得た言葉ではないだろうか。クリスチャンは良い評判を得ようとし、人々との関係を大事にしてきた。それは日本人一般のこれまでの傾向であった。しかし、それで日本人は善人かというとそうではない。歴史上多くの弱者迫害、差別を繰り返してきた。評判を気にするのは、村八分にになることを恐れ、宗門改めのような連帯責任を犯すことによる罰を恐れたための結果としての社会的知恵でしかないように思われる。良い人間、評判の良い人というのは結果であって、それを目指すのは名誉欲という罪の産物でもあろう。

  マリヤ・クリニックも当初いろいろ評判や業績を気にして一般的なことをしていたが、どうも変なものであった。人目や評価を気にして他の人と同じことをすると、やりがいがなくなり医療というよりは商売というものになっていくのであった。栄養療法を明確に打ち出し、患者にも祈ったりする。聖書を贈呈し、今年のクリスマスは伝道ビデオを配布した。ゴルフコンペでは、はっきりと説教し、信仰を説明した。別に抗議は来ていない。却って喜ばれている。治療もあいまいなものは、なおらない。特に癌や重病な人は、はっきりと指導しないと却ってよくならず徒労に終わり評価もよくない。

  苦難はなぜ起こったのだろうか。それは、彼らの罪がひどく不信仰が長く続いたからである。わたしは牧師になろうと決意してから、苦難が続いた。いつもいつも試練ばっかりであった。まさに「祈ってつぶやきました。」ただ、それが自分の罪の故であったり、人の罪の故であることはわかっていた。特に、妻の罪深さまでも背負い込むのには困惑し葛藤した。わたしも罪深いが、妻も相当なものである。結婚というものは、ひとつになるのであって、自分の罪だけを背負うのでは足りないのであることに気がついた。自分の罪というものはなかなか気がつかないが、伴侶の罪はよく気がつく。起こったり批判したりしていても拉致があかない。しかし、うやむやにすると自分の信仰がおかしくなる。

 戸を閉じ身を隠してこそできることがいっぱいある。献身表明した時の家族や友人の非難はすごかった。寮に入らないときも。千葉で勝手に開拓をしたときも。牧師としても未熟さの故にも。子育ての未熟さの故にも。クリニックの経営でも。いつも非難され攻撃されてきた。しかし、わたしはそれらに向かって反発し対決したことはない。自分と妻の罪と弱さを認め、祈りつぶやきながら、仕事に励んできた。

 神の裁きと罪の結果に対して、わたしたちはなすすべを持たない。ただ、とりなしの祈りと悔い改めの祈りだけである。失敗をしたり、恥をかいたら、回復しようとしたりごまかしたりしないで、神の裁きに服する。そして、人の罪深さ、不信仰さに関しても、人間的な世話や助けも甲斐がないことを悟り、ただとりなしの祈りを続ける。わたしは知っている。神の前には言い訳が効かないことを。罪と悪とは、わたしたちを決して逃さないことを。

  年が改まるということは心機一転という良い機会である。失敗や恥、罪、いろいろなものに取り囲まれていたことに扉を閉めて、人の評価や通俗的なことから離れ、自分のするべきことを確認して新しい歩みをすることができる。しばらくは苦しいことが続くだろう。言い訳を言っていたらやり直しはできない。過去とは決別して、新しい歩みを始めよう。

コリント人への手紙第二

5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イザヤ26章15~21節

  • 26:15 主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました。
  • 26:16 主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。
  • 26:17 子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。
  • 26:18 私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。
  • 26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます。
  • 26:20 さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。
  • 26:21 見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。