「主を待ち臨む者は新しく力を得る。」イザヤ40章1~11..31節

聖書の章節は後代になって引き易い為に付けられたものですが、イザヤ書66章は聖書の書の数と同じであり、新約聖書と同じ40番目の40章から「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(1)と叫ばれ、「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(2)という福音が宣言されます。

イスラエルの民は勝手で、神に思い通りのことを要求し、決して神に仕えているわけではなく、そうして捕囚という大きな罰則を受けることになるのです。39章では、宮殿にある物は全てバビロンに運び去られ、ヒゼキヤ王の息子たちはバビロンで宦官になると預言されるのに、「自分が生きている間は平和で安全だろう」(8)と思い、喜ぶ愚かさをヒゼキヤ王は表わしています。

実際の捕囚の前に開放を伝え、それが45章1節のペルシャ王クロスという将来の未知の王によるものであるという超自然的な預言と、それをダニエルが実際にクロス王に伝えるということで実現するのです。

皆さんが確認しておかなければならないことは、これらが起こるのはイスラエルの能力や努力ではなく、信仰でもないことです。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」(10)。

2週間に亘って、北イスラエルは完全に滅び、南ユダは捕囚を経て信仰が強まり、現在の強固な信仰を保つ民族に変えられたことをお話ししました。その違いは何でしょうか。北イスラエルは、信仰の民ではなく、南ユダはダビデの子孫が王を続け、そして預言者が働き、信仰はある程度持っていたことによる違いです。神は、この民を「羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(11)ことをされたのです。つまり、選びと信仰の民としての可能性です。彼らが信仰者として成長する余地を見たのです。そして、優しく育てたのです。

先週の執事会では、別帳になる教会員のリストを挙げました。教会に来ず、献金もせず、洗礼の時に約束した簡単なこと、「①礼拝に出られない時は連絡する。⓶毎月定額の献金をする。」を2年以上守っていない人は、教会員としての権利を行使することはできなくなり、教会の祈りと牧会の範囲から抜けます。元に戻る為には、2年以上滞りなく、それを全うすることが必要で、その間、聖餐式に加わることはできません。

これらも教会員を信仰者として教育するためです。おざなりの信仰姿勢で神の国に行けるはずがありません。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。」(6)。人は、その功績も能力もおごり高ぶるほどのものではなく、ただ花が咲いたようなものです。「まことに民は草だ。」(7)。「だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(8)という神の主権を認めなければなりません。「教会に来てあげている。献金している。」などという態度の人は、結局のところ神に排除されます。牧師としての長い年月で、そのような神の手を感じてきました。信仰とは、誠実な人でなければ保てるものではありません。神は御前から、傲慢な者、不遜な者を排除するのです。

「全ての国々も主の前では無いに等しく」(40・17)。「あなた方は目を高く上げて誰がこれらを創造したかを見よ。」(26)。「私の訴えは私の神に見過ごされている。」(27)と言い張る人々。信仰者といえども多くの人が、自分の状況に制限されて歩んでいます。バビロン捕囚から解放して、神殿再建をさせたことは、状況としては不可能なことでした。神は、愛する者、信じる者に対して、「羊飼いのように、その群れを飼い」として守り、育ててくださるのです。解放預言は、その宣言です。

今日は、高齢者祝福式です。高齢者の特徴は、度胸が据わっていることかもしれません。主を待ち臨むことは勇気が必要です。勇気をもって行動しないと、言い訳と負け惜しみの人生となってしまいます。「若い者も疲れて力尽き、若い男たちも、躓き倒れる。」(30)。「しかし」なのです。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(31)

「神の御手に委ねる。」として何もしない人は、怠惰なだけです。なにかをして失敗することが怖いだけです。祈祷会では、人は御霊に導かれることをせず、自分の判断で自分の汚れた霊に左右されて行動する、と伝えました。大事なことは、主が何かを自分にしてくださると、「主を待ち臨む」のです。

妻も私もコロナの最前線におります。十分な注意をして、なにかあったら、すぐに対応し、最善を尽くします。恐れたら、医療などできません。神の手に委ねるとしていたら、感染するでしょう。むろん、感染することとは覚悟しております。それでも、主を待ち臨み、力を得るのです。

イザヤ40章1~11.31節

  • 40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
  • 40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
  • 40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
  • 40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
  • 40:5 このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」
  • 40:6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
  • 40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
  • 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
  • 40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
  • 40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
  • 40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
  • 40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。