「罪過の生け贄としての十字架。」イザヤ53章4~12節
先週、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」(詩篇51・17)を説明しました。日本では、「御免なさい。」と謝れば許されると躾けている家庭が多いようです。そして、申し訳ないと自分の過ちを悟ることが大事だと教育しています。「ごめんで済んだら警察はいらない。」と言われるように、謝罪で済むことと済まないことの違いを教育することも大事です。聖書的には、過ちには罰を科してからの赦しが正当です。むろん、御免で赦されるようなものもあります。
その罪が社会的なものか、人間関係のものか、神との関係(倫理的なものを含む)のものか、をしっかりとわきまえることも大事です。人の心を傷つけたのに、神に謝罪を繰り返して当人に謝らないのは問題です。社会的な犯罪をしたのに、神の赦しを求めて、それで済むことでもありません。つまり、自分の行動を日々、反芻(はんすう)することが大事です。聖書に反芻する動物は聖いとあるのは、食物を胃から戻して噛みなおすことを繰り返す、つまり、繰り返して考えるという意味合いを持ちます。自分の行動を毎日の祈りの中で思い出して神の前に吟味しないならば、それは聖くないのです。自己吟味しないと、聖くないものが生活と思考に定着して、悪に染まり、立ち返ることのできない悪人になっていきます。
自分の悪い状態や悩みを人に相談する人が多いのですが、それは自分の正当性を人間によって確認することになる場合が殆どです。罪びとは、神の前に出て悔い改めることや、赦しを体験することができないので、問題と悩みは鬱積してきます。もし、信仰者ならば、多くの問題を神に委ね、為すべきことをコツコツとしていくだけなのです。自分の咎や罪があることが覚悟し、全てがうまくいくことなどないことを認めて生きるのです。信仰者が自らの罪を認め、悔い改めて生きるということは、思うとおりにならない人生を受け入れるということであり、むしろ、人を愛し、神に仕えて生きるのです。
今日は復活祭の2週間前なので受難のキリストについて語ります。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2・6-8)
なぜ、神の子が「自分を卑しく」しなければならなかったのでしょうか。人は、すべてがうまくいき、楽をして、思い通りの人生を送りたいと願うものです。そして、人生の落後者をあざ笑い、「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」(4)非難するのです。自分は罪がなく、神から祝福されたものだから、うまくいっているのだと自慢するのです。イエス様が、「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。人々が、あなた方をののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる時、あなたがたは幸いです。」(マタイ5・3-11)と言われた時、人々は驚きました。
「あなた方は地の塩です。世界の光です。」(マタイ5・13.14)と続けられます。この世の生き方と迎合しないから、地の塩であり、世の光なのです。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(5・20)。
人がみな、思い通りに生きることを求め、自分の罪咎を覚悟することを避けて生きるので、イエス様は、自ら人となって、全ての人の罪を身に受けて生きることを選ばれたのです。「だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」(8)。
教会は、神に召しだされ救われた者の集いです。いくら人数が多くなっても、そこに自己実現を図り、罪の欲求を満たそうとする者の集まりであるならば、神の国に行くことはできません。アメリカでは、互いの結びつきを求めて教会に来る人が多く、教会を社会的勢力にして成功しようとする人々が絶えずおります。私は、教会成長運動を批判することはしませんが、自分自身としては、その危険性を憂慮する意識の方が強いように思います。
その危険性は次の通りです。教会員を増やそうとして、信仰決心や洗礼が安易になる。教会員教育がなおざりになり、教会活動が多くなる。教会員には活動への参加と多額の献金が求められる。教会員の関心は楽しい教会であり、自らの内面を見たり、みことばによる成熟がおざなりになる。牧師に賛同しないことが罪となり、教会活動に参加しないことが非難される。教会員の霊的な結びつきよりも、集会への参加により仲良くなることが重視される。・・・すべてがこういうものではありませんが、教会にしても信仰者個人にしても、欲望による自己実現が当然なものとされます。
そういう姿と、イエス様の卑しめられ、痛められ、苦しめられた姿の対比はいかがでしょうか。「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。」(10)。イエス様が、私たちの罪の身代わりに罰を受けて下さったので、私たちが魂を救われ、信仰者として今あるのです。
イエス様は「自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(11)。私たちも思い通りにいかない人生に満足しようではありませんか。「重くともなれが十字架、荷いゆけ笑みもて」とイエス様の後についていこうではありませんか。イエス様が罪びとの罪咎を担ったので、「多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕りものとして分かちとる。」(12)のです。自分の思い通りの人生を過ごしても、魂を救いに導くことは難しく、思い通りでない人生を喜んで生きることによって、世の光として輝くことができるのです。
イザヤ53章4~12節
- 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
- 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
- 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
- 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
- 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
- 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
- 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
- 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
- 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
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