「キリストはいのちの光です。」 ヨハネ1章1~14節

 灼熱の太陽、暑いですが、夏至からは2か月も過ぎています。暖かくなるのに時間が掛かったわけですが、太陽の光は確かに動植物に命を与えます。地軸の傾き23.4度が季節を与えるのですが、傾きが無ければ暑過ぎ、寒過ぎることになります。イエス様のご配慮は凄いですね。この1章によれば、そのような造作を考え行われたのはイエス様です。

 地球温暖化の危機が叫ばれますが、もし大気中に水蒸気や二酸化炭素が無ければ地球の平均気温は零下19度になるそうです。二酸化炭素の量が丁度良いように造られ、もし増えてもそれを吸収し酸素に替える機能を神は地球に備えられたのです。これを経済重視の人間が壊してしまったのです。二酸化炭素が大気に過剰に増え、熱が宇宙に逃げなくなったのです。そして、氷河が解け、砂漠化が進み、異常気象が通常化して、不可逆的な地球破壊が進むのです。つまり、人が住めないような状態になるのです。異常気象による災害が日本中で起こり、更に洪水や地震、噴火が起こり、コロナ災害で破綻した経済は、もはや回復不能となり、社会秩序は崩壊していくのです。光が地球を温暖にするのですが、人間の罪が宇宙との熱の交流を妨げたのです。

「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3・21)。神には、全てが知られているのに、人間は罪責感を感じると、ばれるのを恐れ隠そうとします。神の前にへりくだり罪の赦しを求めないで、神との境を作り、熱ならぬ罪をため込んでしまうのです。

 クリニックニュースの9月号では、災害に備えて助け合う家族、仲間を大事にしましょう、と伝えました。世界中で日本ほど国に期待し、信じている国民は少ないのですが、その国も経済的に破綻し、なおかつ誤魔化して政治家は権力に固執しています。企業もIT化が進まず、上意下達の組織では、潰れていくだけでしょう。外食に頼り、自炊をしない家の経済は破綻するでしょう。遊興費に掛ける金はなくなるでしょう。誠実に生きるということが、何よりも大事なのですが、罪はそれをさせまいと活発になります。罪とは閉鎖的になり、問題を外に出さなくさせるのです。ため込んだ罪深さは、その人の人生を崩壊させ、多くの問題を自然災害のように噴出させるのです。

「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(へブル4・13)。主義主張や、頑固さは、自らの義を主張する罪の隠れ蓑です。どんなに自分が正しく、国の為、会社の為、家族の為、

教会の為、神の為、と唱えても、神の前には悔い改めた方が良いでしょう。「義人はいない。」(ローマ3・10)のですから。

 神の国には、夜も陰もありません。「神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示録21・23)。神の光は、物質を貫くのです。そして、人の心も貫くのです。同居している家族から、信仰者であると認められないのは、その人の信仰が未熟で、自己義の部分があるからでしょう。或は人目を気にした信仰だからでしょう。神だけでなく、人の目も誤魔化せないものです。家族を救いに導くことも、信仰を理解してもらうことも難しいものですが、家族からあなたが信仰者として呆れられ、馬鹿にされるならば、それで充分です。いつの日か、この世の生き方に躓いたら、あなたのことを思い出し、救いを求めるでしょう。

 姦淫の現場で捕らえられた女性がイエス様の前に出されました。律法によれば石打ちの刑で殺されることになっています。イエス様は、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)と言って、地面にものを書き続けられました。そうすると、誰も彼女を罰することができずに去っていきました。イエス様は、彼らに心当たる罪状を書いていたのかもしれません。

 イエス様は、「誰もあなたに裁きを下さなかったのですか。」(8・10)と尋ね、「わたしもあなたに裁きをくださない。これからは決して罪を犯してはなりません。」と告げました。そして、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(8・12)と宣言されました。

 イエス様は、罰するために人として生まれたのではなく、救うためです。しかし、人間は、「神を信じている、間違ったことをしていない、人のため会社のためだ。」などと自分の義を主張し、正しく生きることができない弱者を裁きます。大事なことは、「イエス様に従う」ことであり、自分の信じる信仰生活ではありません。「いのちの光を持つ。」ことは、自分のいのちをイエス様に掛けることです。

 「すべての人を照らすそのまことの光」(9)は、人の全てのことをさらけ出すのですが、最後の審判の時には、まさに罰するために使われる罪状となります。地上で生きている間に、悔い改めておいたほうが良いでしょう。

ヨハネ1章1~14節

  • 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
  • 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
  • 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
  • 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  • 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
  • 1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
  • 1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
  • 1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
  • 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
  • 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
  • 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
  • 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
  • 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
  • 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。