「大いなる救いのため」創世記45章1~8節

創世記42章から45章までのヨセフの兄弟たちへの仕打ちを読むと、なぜこんなにしつこく責め立てるのかと疑問を感じることも多いかと思います。私自身も当初は、そんな思いを抱きましたが、牧師となって人の罪の深さ、悔い改めの難しさを悟るほどにわかってきました。例えば、説教を聞いてわかったと思う人は多いのですが、その積み重ねがあったとしても、悟りでは魂は救われないのです。

彼らは「私たちは正直者でございます。」(2・11)と言います。へつらいながら、自分をよく見せようとするのです。「もう一人はいなくなりました。」(13)ではなくて、自分たちが殺そうとしたのです。彼らは、試練を受けて初めて、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」(42・21)と後悔するのです。

「ルベンが彼らに答えて言った。『私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。』」(22)。罪を犯した罰を受け入れられない人は、多くおります。自分の過ちや誤魔化しがばれた時に、謝って罰を受けようとする人と、何とかして罰を逃れようとする人がおります。はっきりと言っておきますが、罰を逃れようとする人は、赦しを受けることはできませんし、救われたクリスチャンではありません。

ヨセフは、最も残虐であったシメオンを縛り牢に入れて、他の兄弟を返しました。乱暴者のシメオンですが、他の兄弟が彼を見捨てるかどうかを見守ろうとしたのです。飢饉は続き、再びエジプトへ食料の調達に行かなければならなくなりました。父イスラエルにとって正妻の子は残るベニヤミンだけですが、ユダはベニヤミンをヨセフの命令の通りに連れていくために、「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(43・9)として「保証人」「罪ある者」という信仰の奥義を告白します。

再びヨセフの前に出た兄弟たちは、エジプトの絶対者の前に恐れおののきます。そして、袋の中に返されていた銀についても、言われる前に告白します。絶対神を信じている人は、不平や不満、嘘偽り、誤魔化しや言い逃れはしないものです。皆さんも、自分の日々の言動を振り返ってください。もし、あなたがそのようであるならば、神の裁きを逃れることはできません。

兄弟たちは歳の順に座らされ、ヨセフの超能力に驚くのでした。帰ってゆく彼らの袋には再び銀が戻され、ベニヤミンの袋にはヨセフの盃が入れられます。そしてしばらくして追いつかれ、ベニヤミンだけが奴隷とされることになります。しかし、兄弟たちは、着物を引き裂き、末の弟だけを残すことを良しとせず、ヨセフの前にひれ伏すのでした。

 ユダは言います。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」(44・16)。正直者を装っていたのが、「神がしもべどもの咎を暴かれた」と告白するようになったのです。クリスチャンになって、立派さを装うことはやめた方が良いでしょう。そのうちに罪も咎も暴かれます。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1・15)が救われたクリスチャンの告白です。善人を装い、立派さを競う人は、化けの皮が剥がれないように、誤魔化しをするのです。

 4男のユダの告白、身代わりは真摯なものでした。ヨセフはこれ以上、兄たちの悔い改めを迫ることはできず、ユダの言葉に感動して泣きだしてしまったのです。

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ」(へブル9・27)とありますが、ユダ以外の人が真に悔い改めたようには思えません。父イスラエルの死後に、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」(50・15)と言っているように、罪の赦しを信じていないからです。そして、確かに、現在ユダヤ人と言われるように、イスラエル民族で残っているのは、ユダの子孫だけなのです。

 教会にも外面を装い、立派な教会員らしく振る舞っている人がおります。その人は、神を見るよりも、人にどのように映るかに関心があり、自分の成長や願いの達成を神に求めているのです。或は、自分の内面や行いに関心があります。クリスチャンは、そのような罪びとの中に、平然と罪びとであることを自ら告白して生きるのです。罪びとは、罪人でないように生きるのです。神の裁きは、奇妙なものです。

創世記45章1~8節

  • 45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
  • 45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
  • 45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
  • 45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
  • 45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
  • 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
  • 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
  • 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。