「神の国では男も女もない。」マタイ福音書22章23節~33節

皆さんが他教会のクリスチャンと会うと、その信仰が情緒的で愛や優しさを求める者が多く、神の御心任せという信仰が多いことに気が付くと思います。私たちの教会では、教会員教育を重視し、信仰とは理論的・人格的に形成するものであって、神は聖書の教えに人格的に従っている者を選んで祝福をするということを教えています。日本人の信仰というものは、やはり鬼神信仰的なものが多く、神の怒りに遭わないように、目立たないように、要求をせずに、おこぼれ的な御利益を願うものになる傾向があります。つまり、信仰と言っても、人間の宗教指導者のご機嫌伺い的なものになる、実際には神なき宗教です。キリスト教でさえ、このような傾向になります。

 イエス様は、そのような律法学者やパリサイ人による宗教的統制を排除し、目には見えないからこそ、人格的な信仰の目によってこそ見える神を見つめた信仰を教えるのです。そして、それは礼拝における態度、讃美の姿勢、日常生活などに現れてくるのです。怠惰な信仰生活で、神の祝福が得られることはなく、神の国に行けないのは当然なことです。このことに気が付かないのが、宗教的指導者と言われた人々なのです。

 さて、今日は、キリスト教徒でも男尊女卑を唱える過ちを指摘します。彼らは男のあばら骨から女が造られたのだから男の付属物のように考えます。さらに、「夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(創世3・16)と主張します。しかし、それは罪を犯したからの罰であり、その前は「私の肉からの肉、骨からの骨」(2・23)と「二人は一体となる」(2・24)と本来の関係が記されています。

 弟子たちでさえイエス様に「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイ19・10)と、離婚は罪びとだからしてしまうので、そういう仲違いは本来あるべき姿ではないと教わった時に反論します。人間の罪の歴史というものは、男女関係、結婚の状態によって示されるのです。そういう面で、「独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。・・・独身の女や処女は、身も魂も聖くなるため、主のことに心を配ります。」(Ⅰコリント7・32.34)とあるように、結婚しないことも一つの選択肢であるとパウロは言いますが、「情の燃えるよりは、結婚する方が良い」(7・9)と、独身で過ごすことは、難しいと諭しています。

 これらのことからわかることは、男女の性の違いは、罪と非常に密接な関係があるということです。人は「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1・28)という地上における神から与えられた使命を果たすために子を産むということが重視されます。ところが、それが罪の故に、性の放縦(規律もなく勝手になること)に陥っています。子供や青年に人気のある漫画を調べてみると、そのようなものばかりでした。若いほど、愚かな者ほど、性的欲求を制御できなくなるのです。聖書的な夫婦における愛というものがわからない世界の現実です。

 今日の聖句は意味深いものです。神の国では、夫も妻もなく、子どもも親もないのです。男として女性を見下げていた者は、神の国では威張ることもできなくなって存在を確認できません。ですから、そのような者は神の国に入ることはないのです。血縁や家柄、財産や功績も神の国には持っていけません。ですから、そのようなものに依存して生きている者もまた、神の国には入れません。容姿や運動神経も、神の国の基準ではありません。

 「神は、御心に従って、それに身体を与え、各々の種にそれぞれの身体をお与えになります。・・・太陽の栄光もあり、月の栄光もあり」(Ⅰコリント15・38.41)として、地上の人生の歩み方によって神の国に行くかどうかだけでなく、神の国の栄光も違うと語られています。

 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちは、この神に対して弁明をするのです。」(へブル4・13)

 男に備えられているものは、戦いや攻撃に有利であり、猟や生活の糧を得る為に重要なものです。そして、人生は全て戦いであり、男性のタフさが必要なことは多いものです。しかし、継続的な家事、料理、育児は女性がいなければ男性にはとてもできるものではなく、生活は破綻してしまいます。その生活の困難、人生の戦いを切り抜けるために、どうしても夫婦、そして家族が必要でした。互いに依存することが必要だったのです。

 ところが、現代社会、特に日本では、一人でもどうにか生きられるような社会になっています。そして、人間の罪性というものは、神でも、人でも、依存し、従うということに反発します。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、皆のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順にもたらす為です。」(ローマ1・5)。

 あなたがもし、妻の上に君臨し、愛することができていないならば、神の国の基準からは逸脱しています。あなたが夫の上に君臨し、非難を繰り返しているならば、やはり神の国に入ることはできません。この世の夫婦の在り方に習ってはいけません。それを普通と見なしてはいけません。あなたは、心から悔い改める以外ないのです。

 最も身近な人に対する行動と態度で、神の国とその義を全うしているかどうかがすぐにわかるのです。神の計らいは、なかなか逃げようがないものです。

マタイ福音書22章23節~33節

  • 22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
  • 22:24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
  • 22:25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
  • 22:26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
  • 22:27 そして、最後に、その女も死にました。
  • 22:28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
  • 22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
  • 22:30 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
  • 22:31 それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
  • 22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
  • 22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。