「心と耳に割礼を受けるか。」使徒7章51~60節

 訴えられた者に弁明の機会を与えるのは「ローマの慣例」(使徒25・16)でした。それでイエス様は、弟子たちに訴えられ捕えられる終末の時に「証しの機会となります。それでどう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。・・・反論も、反証もできない言葉と知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」(ルカ21・13-15)と教えます。「言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12・12)

 先日、「あなたのパスワードを知っている。あなたの見たポルノサイトの記録を友人たちにばらす。消したかったら570$ビットコインで送れ。」とメールが来ました。他のものは2000$でした。私のパスワードが知られたようです。でも、私はそのようなサイトに入ったことはないし、見たこともないので放っておきますが、既に数百通メールで脅されています。まるで、最後の審判のようです。隠れてやっていることが全て裁かれるのです。身に覚えのある人は、困るでしょうね。

 ステパノの長い説教はアブラハムをまず語ります。アブラハムは信仰の人であるからこそ、イスラエルの父であり、彼はどこに行ったらどうなるという保証もなしに、信仰の旅に出たのです。私たちもまた千葉に来たらどうなるという保証もなしに伝道を始めました。保証や目に見えるものをあてにするのは信仰による歩みとは言いません。

 次に、エジプトに売り飛ばされたヨセフのことを語ります。「神は彼とともにおられ、あらゆる艱難から彼を救い出し、エジプトの王パロの前で、恵みと知恵をお与えになった」(7・10)。

 モーセが自分の思惑ではなく、神の御心によって40年間の試練の時を与えられ、信仰的に強くなったことも語っています。逆らう民を率いてエジプトから脱出するためには、忍耐力と神への従順が必要だったのです。

 ダビデは神殿を作りたかったけれども、「いと高き神は、手で作った神殿にはお住みにならない。」ことを教え、ソロモンが神の家を建てたことを、ステパノは語り、神殿主義のユダヤ人を攻撃します。最高議会に引き立てられ尋問を受けているのに、その指導者たちに真の信仰とは何なのかと悔い改めを迫るのです。

 その要点は、「頑なで、心と耳に割礼を受けていない人たち!」(51)です。割礼は、ユダヤ教やイスラム教でされる、男性性器の包皮を切り取る儀式で、衛生上の機能もありますが、神との契約の印であり、性欲を含む欲望について神を意識する意味合いがあります。それで、「割礼を受ける人は、律法によって義と認められようとしているので、律法全体を守る必要がある。」(ガラテヤ5・3-4まとめ)とされるのです。

 「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラ5・5.6)とされます。そして、「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」(ローマ2・29)とあるように、割礼を受けていれば信仰者というのではなく、心が神に繋がれている人が信仰者なのだということなのです。

 クリスチャンでいえば、洗礼を受けているということはキリストの弟子の必要条件ですが、十分条件は神に従って生きているということです。「耳に割礼」とは、神からの語りかけを聞く耳を持っているということです。

 アブラハムも、ヨセフも、モーセも、ダビデも、困難や試練はいつもありました。アブラハムは、信仰の旅立ちしてから100年間生きましたが、自らの地所はもちませんでした。ヨセフは、エジプトで死に、遺体をカナンにあるアブラハムの墓所へ納めるよう願います。ダビデも、子ども達と妻たちの権力闘争の中で死んでいきます。

 心に割礼を受けていない人は、自分の人生に成果や功績、遺産などを残したがります。信仰者は、神に従って生きたかどうかを大事にします。

 人間には、能力の多少、性格や体格、生まれや財産、環境や育ち、いろいろな違いがあります。「形造られた者が形造った者に対して『あなたはなぜ私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。」(ローマ9・20)。読んだ本に「キリスト者は、自分がどこにいくのか尋ねる権利を神に対して持っていない。」という言葉がありました。

 私自身、神を信じる前の12歳の時から、ひたむきに努力をしてきました。信仰をもった21歳の時に、その努力の目的を知りました。44年経って、未だに努力を続け、神の国への道を歩んでいます。そろそろ、休みたい気もあり、身体もそうですが、それが堕落に繋がることは知っています。むろん、年相応な働きに変えていくことは必要ですが、道は歩まなければなりません。アブラハムに負けじ、モーセに負けじ、と信仰の旅人は歩んでいるのではないでしょうか。

使徒7章51~60節

  • 7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
  • 7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
  • 7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
  • 7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
  • 7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
  • 7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
  • 7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
  • 7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
  • 7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
  • 7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。