「知恵と御霊によって語る。」使徒6章7~15節

「御霊に満たされる」ことと、「悪霊に憑かれる」ということは全く違います。しかし、基本的に、その人が自分の心を明け渡さないと、そういうことはありません。

「悪霊に憑かれる」ということは、支配欲や自我の欲望が募って、望みを叶える為に魂を委ねてしまうことによって起こります。オカルトなどが取り上げられますが、酒浸りや麻薬、性欲などはもちろんのこと、ゲームなどに浸ることも悪霊に影響されることは多くあります。趣味やオタク、なども気を付けなければなりません。ともかく、健全な生活を破壊しててしまうことは、魂の滅びに繋がり、生活習慣のふしだらな人は、聖書的に生きることは難しくなり、誘惑にも遭いやすくなります。

 「聖霊に満たされる」ということも、そのような生活や習慣を持っている人が得ることは無理です。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ローマ6・16)。クリスチャンになったら、過去の生活習慣や考え方、そして趣味なども再考して、「自由にふるまっていた」(ローマ6・20)ものから変わらなければならないのです。

 夫婦の関係、生き方についても同様です。結婚しても、一緒に生活しているだけで、勝手に生き、独身の時代の趣味や生活を改めないとしたら、聖書的な愛し合う夫婦になることは不可能です。「義について自由にふるまっていた」(6・20)世の中の生き方を当然なことをして暮らすから、クリスチャンになっても愛し合う夫婦になれないで、うまくいかない時に悔い改めて、どうにか結婚生活を保っているのです。

 「御霊に満たされて生きる」ためには、自分の考え方、生活習慣、人間関係、その他全てを、聖書的に生きるように心掛けなければなりません。特に、日本人は、その生活を前提として、聖書よりも大事にする傾向があります。例えば、聖書を〇分読むとか、祈りを〇分するとかが、聖書的であると考えてはなりません。御心に従って、聖書的な暮らしをするように改めるという実践がなければ意味がないのです。

 自分の願いを祈るのは一回で良いと言いましたが、人のための祈りばかりをしていても霊的にはなりません。「自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられる父に祈りなさい。」(マタイ6・6)。自分のうちにある深い所、恥ずかしい所、秘密の所に、神を招き入れて、自分の心をさらけ出し、世の思惑や考え方に対しては戸を閉めて、自らを神の前に吟味するのです。イエス様は、神に心を注ぎだし、自らを変えようとする祈りを説いておられるのです。罪を悔い改めるということは、生活を変える、考え方を変えるということなのです。

私は神を信じてから、マージャンも、タバコも、お酒も、友人たちと遊びまわることも止めました。付き合いが悪くなったと非難されましたが、この世の生き方の虚しさに気が付いていたからです。そして、非難した多くの友人が、教会に来て、その数人が信仰者になりました。クリスチャンになっても、同じように生きていたら、周りの人はあなたの信仰に何にも関心は持たないでしょう。そして、あなたの信仰は実態のないものとして証明されることになります。

 今でも、いつも自分の歩みをチェックしています。私の歩みと考え方が真実なものかどうかは、妻に聞いてみてください。そして、神がご存知です。この悔い改めと、御霊によって生きるということが、なおざりにされているので、日本のクリスチャンは形式的であり、魅力がなく、御霊にも知恵にも満たされないのです。

 悔い改めるということは、自分の弱さ、劣等感、過去、優越感、自慢、誇り、その他、自らの全てを価値のないものとして放棄することです。自分の過去に囚われて、それを口にすることが多い人は、悔い改めということを、きちんとしていないのです。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5・17)。新しい人生を歩んでいないのならば、あなたは救われていないのかもしれません。よく自らを吟味し、神の前に過去から決別してください。

 ステパノはギリシャ名なので、イスラエル以外で生まれ育った人でしたでしょうが、執事として任命される時は既に「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」(使徒6・5)でした。だからこそ、海外から来ているユダヤ人の攻撃の的になったのでしょう。彼の考え方、生き方、信仰者になってからの変化は、彼ら未信者にとっては、腹の立つものだったからです。もし、皆さんの生活が、他の人と変わらないものであり、影響を与えないものだったら、攻撃されることもないのです。

 クリスチャンになってからの私への攻撃も凄いものでしたが、ステパノの記事を見て、慰められたものでした。あなたが俗的な肉に属するクリスチャンであるならば、人々の関心をひかず、攻撃されることもないでしょう。真の神を信じて生きる聖い生活は、罪びとには目障りです。

 大事なことは、立派に生きることでもなく、成功することでも、失敗をしないことでもありません。聖書と聖霊に導かれて生きようと願うことです。人の目を気にすると神の目を気にすることはできません。私が結婚した女性は、祈りと伝道と教会活動を優先する、愚かで不器用な処世術に劣っていた人でした。神も私も、それが大事だと思ったのです。「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(箴言2・6)

「知恵と御霊によって語る。」使徒6章7~15節

  • 6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
  • 6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
  • 6:9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
  • 6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。
  • 6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。
  • 6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。
  • 6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
  • 6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
  • 6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。