「神の計り事を覚える。」  使徒7章58~8章8節

私たちは、良いこと、都合の良いことがあると喜び、悪いこと嫌なことがあると悩むものです。更に、悪いことが続くと、神に不満をもったり、信仰も気力も衰える人が多くおります。

  敬虔な筆頭執事ステパノが殺され、迫害が激しくなって、信者たちはエルサレムを逃れ、地方に散りました。更に、石打の現場に居た青年サウロは、興奮してエルサレムの教会を荒らし、信者の家に入って引きずり出し、次々に牢に入れます。

  世の中の人々は、勝ち組に乗ろうとします。失敗者や弱い者を見下し、強い者に付こうとします。そういう面では、わたしはむやみに人を誉めることには気を付けた方が良いと考えています。褒められると更に褒められようとして正常なことをしなくなってしまい、また失敗を恐れて危険を冒さなくなるからです。大事なことは人の評価を気にすると、落ち着いた信仰生活ができなくなる傾向があるということです。世の中は、誉めて育てろと言いますが、聖書的には厳しく愛情をもって育てることが大事です。人間関係も褒め合う習慣を持つと、自分の弱みを見せなくなり、見せかけを気にするようになるので、気を付けてください。

  このサウロは、後に超自然的な体験をして信仰者パウロになります。「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時こそ、私は強いからです。私は愚か者になりました。」(Ⅱコリント12・10-11)とあるように、勝ち組に乗ろうとして興奮し、クリスチャンを迫害したサウロは、自らの過去におののきながら、弱さ罪深さを認めた大使徒パウロになるのです。

 パウロは、自分の望みを叶えようとして人々を攻撃したことを自覚したのです。強くなろう、成功者になろうとして、神に従わずに逆らってしまったことを悟ったのです。

 「愚か者」とは、どういう人でしょうか。家内は自分が疲れていても、私の足を揉んでくれようとします。私も、自分の仕事があっても、妻のために時間を掛けます。自分の都合を優先しません。シソがあったら、それを時間を掛けて摘み、乾燥して皆さんにあげようとします。シソの実も、摘み取り、家内は料理してそれを人にあげようとします。栗が多く採れた時は、さすがに私たちも途方にくれました。先週、皆さんにあげたものは110個、水につけて圧力釜で煮て、更に炒めました。私たち夫婦は、殆ど人の為に生きています。計算したり、自分の都合で生きたら、そんなことはしません。しかし、それは奥義なのです。「忍耐を尽くしてあなた方の間で行われた、しるしと不思議と力ある業です。」(Ⅱコリント12・12)。自分の繁栄の為に生きる人に、神が助けも力も不思議も現わしてくださるはずはないのです。

住み慣れたエルサレムから追い出された信者たちは、「みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた。」(8・4)。決して弱音を吐いたり、悩んだりしていないで、却って伝道をしているのです。「状況にさゆうされない」のです。

 歴史的に振り返ると、もし迫害によってエルサレムからクリスチャンが散らされなかったら、キリスト教は世界宗教になっていないのです。

迫害とか、困難があると神の御心ではないのではないか、と悩む人が多くおります。困難や試練や迫害は信仰者が成長成熟するための、調理の過程のようなものです。困難や苦労が予想されると前進しない人がいます。残念ながら、その人が信仰者として成長し、神の祝福を受けるということは決してないでしょう。信仰とは計算や常識では無理だと思うことでも、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々は、この信仰によって称賛されました。」(へブル11・1-2)

 執事のピリポは、サマリヤに行き、伝道しました。悪霊を追い出し、癒しをなし、救いを伝えたのです。彼は決して失望しませんでした。それで「その町に大きな喜びが起こった。」(8・8)のです。細かなことに一喜一憂していると神の計り事に乗ることができません。そして、神の予定も計画も知ることができない浅はかな人間が、神の名を使って、事の良し悪しを論じてはいけないのです。良いことが起こった時に、「神様がこれをして下さった。」というならば、悪いことが起こった時にはどう考えるのでしょうか。

 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4・2-5)

 時代が悪くなると、健全な教えではなく、自分に都合の良いことを言ってもらおうとする信者が増え、真理に生きることを気に掛けない偽信者が多くなってくるのです。この教会は、私がいつも、このような厳しいことを聖書通りに言っているので、どうにか守られると願っています。信仰者というのは、良いことが起こったとか、悪いことが起こったなどということにとらわれず、信仰者として「自分の務めを果たす」ことが大事なのです。

使徒7章58~8章8節

  • 7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
  • 7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
  • 7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
  • 8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
  • 8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
  • 8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
  • 8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
  • 8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
  • 8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
  • 8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
  • 8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。