「喜びと真心をもって愛餐する。」 使徒の働き2章37~47節

母の日感謝食事会は、男性たちの真心のこもった調理と接待でした。私ども夫婦の誕生会も、教会員の皆さんの見事な料理で豪華で楽しい食事会に心から感謝しました。礼拝が終わると直ぐに帰る方もおります。それぞれ都合があり、事情があるのでしょうが、実は礼拝の後に食事を共にするということは、非常に大事なことです。

律法には、いけにえ、犠牲があります。

① 全焼の献げ物(燔祭)。レビ記1章

 若い雄牛、雄の子羊、雄山羊を全て焼き尽くす。これらは反芻し、ひずめがある聖い動物。貧しい人は山鳩か家鳩のひな。「その人は自分が主の前に受け入れられるように、…その全焼の献げ物の頭に手を置く。それがその人の為のなだめとなり、彼は受け入れられる。」(レビ1・3.4)。反芻とは、4つの胃で消化吸収することを意味し、教えとしては「何度も同じ事柄について思いを巡らせる」ことの重要性を意味する。

② 穀物の献げ物(素祭)。レビ記2章

 上等の小麦にオリーブ油を注ぎ、乳香を添え、焼く。一掴みを焼き尽くし、残りを大祭司に献上する。塩で味付けをするが、酵母菌や蜂蜜は入れない。酵母菌は偽善と腐敗の象徴。蜜は、快楽や自己中心の象徴。

③ 交わり(和解)の献げ物(酬恩祭)。レビ記3章。

献げる者が動物の頭に手を置き、自らの身代わりであることとする。全ての脂肪を取り除き焼く。残った肉のうち、胸肉と右腿肉は祭司のものとなり、他は献げた者とその家族が食べる。レビ記7・29-34.

「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせてくださるためです。」コロサイ1・22

④ 罪のきよめの献げ物(贖罪のいけにえ、罪祭)。レビ記4章

献げる者は、傷のない若い雄牛の頭に手を置き、自ら屠る。その血を取り、会見の天幕に入る。大祭司は、その血を聖所の垂れ幕に向けて7度振りまき、祭壇の四隅の角に塗り、血を全て祭壇の土台に流す。脂肪を全て祭壇で焼き、残りは肉を含めて全て宿営の外の灰捨て場で焼却。

⑤ 罪過のための献げ物(けん祭)レビ5章

傷のない雄羊を祭司のところに持っていく。或は、代償として五分の一を加えて祭司のところに持っていく。祭司は、それを焼く。

「交わりのいけにえは、それが献げられる日に食べ、少しでも朝まで残してはならない。…請願の献げ物、或は進んで献げる物であるなら、翌日食べても差し支えない。」(レビ7・15.16)。

 現代で言えば、献げ物とは献金と捉えられます。献金を会費のように考え、教会から受けるメリットの代価として捉える人がいますが、それでは信仰者とは言えません。また、貧富の違いで認められる献げ物は、全焼の生贄、つまり、自分を神に献げるという意味合いのものです。罪の聖めの献げ物も、貧富の差が適用されます。礼拝の席上献金は、穀物の献げ物でしょうか。これは、真摯な思いが大事で、献金をしないとか、まとめてするということはありえません。

 ヨルダン川を越えて約束の地に入ったら、「自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、主に全焼のささげ物を献げなさい。またそこで交わりのいけにえを献げて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しみなさい。」(申命記27・6.7)と、交わりの生贄を一緒に食べる喜びが記されています。

 「民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」(Ⅰサムエル11・15)、「ソロモンは主へのいけにえとして、牛二万二千頭と羊十二万匹の交わりのいけにえを献げた。こうして、王とすべてのイスラエルの人々は主の宮を奉献した。」(Ⅰ列王8・63)、「ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、主の御名によって民を祝福した。」Ⅰ歴代16・2)とあるように、喜びの時、祝いの時、また、一致を願う時に、交わりの生贄を献げて飲食を共にしたのです。

 信仰が知的理解ではない、と何度も語っています。礼拝は、信仰者が必ずしなければならないことです。まず、神を讃美し、神の御恵みを語り合い、そしてみことばを朗読し、みことばからのメッセージを語り受け取り、そのメッセージに反応して、献身の応答をするのです。その応答のしるしとして献金があります。ユーチューブなどで参加している人も、その礼拝に応じて袋に献金を入れるべきです。そして、神への讃美で礼拝が締めくくられるのです。それで終わりではありません。信仰の友と共に飲食をし、神との人との交わりと和解を喜ぶのです。ですから、教会にとって愛燦会は非常に大事なものです。コロナでそれを維持できなかったのは、サタンのたくらみだったのです。

使徒の働き2章37~47節

  • 2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
  • 2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
  • 2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
  • 2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
  • 2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
  • 2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
  • 2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
  • 2:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
  • 2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
  • 2:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
  • 2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。