「神の顕現に心刺されて。」 使徒の働き2章36~47節

日常の生活の中で、人々が神を知らない生活、神を信じない歩みをしていることを感じながら、私自身は神を身近に感じ、神の御心を行おうと意識して生活しています。かつて私も神を知らない歩みをしていましたから、それは理解できますが、その頃の私には、心の中の空虚感をどのように対処したら良いのか苦しんでいました。他の人には、うまく行っているように見えたでしょうが、成果を上げても、遊んでも、知識を積んでも、その空虚感は埋まりませんでした。

日本人の今の関心は、コロナ、ウクライナ、物価高騰、災害予測、そしてスポーツや芸能、更には自分の収入や暮らしなどがあるでしょう。人々は、その対応に明け暮れているのでしょう。ただ、その先、そして人生の意味については、考える暇もなく、また、思いもよらないのでしょう。

「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた」(使徒2・5)が、街の一角の2階座敷で起こった出来事に「呆気に取られてしまった。」(6)。

「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。・・・それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」(7-11)

街を歩いていると、過激な集団や人々に出くわすことがあります。健全な団体でも、過激な勧誘だと引いてしまいます。知識をひけらかす極端な言動の人もおりますが、話を聞いていると、その矛盾点や総合的な教養と人格の無さが断定的な言動の理由だと思われてきます。

ロシアではさすがにプーチンの話も眉唾だと思う人が増えてきたようです。アメリカでは、バイデン大統領も正義感はあるけれども、物価対策など現実政策で弱点があると言われてきています。岸田首相について、日本人はあまり考えていないところが心配です。日本人は政治的、経済的、社会的なことに関心を持っても改善しないと諦めているところがあるようです。まして、宗教に関心を持つのでしょうか。

ところが、そごうに行ったら、占いの店が店内にあることに驚きました。調べてみたら、千葉駅周辺には幾つもありました。超自然は信じていて、自分の利益の為にはそれを利用しようとしているのです。「偽預言者が大在現れて、多くの人を惑わします。」(マタイ24・12)というのは、こういうことなのだなと思わせられました。
先週はペンテコステでしたが、現代社会でこのような超自然的な神の圧倒的現われがあっても、人々は関心を持たないかもしれません。現実にイエス様が預言された終末の様相は顕著に現れています。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」(マタイ24・7)となっていても、人々は自らの欲望の中で過ごし、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」(マタイ24・12)。

現代とこの時では何が違うのでしょうか。

この直前に、「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(36)という事件が起こりました。その後、イエス様がよみがえったという噂が飛び交い、その弟子たちが120人も一つ家に集まって熱心に何日も祈っているのは知られていました。その人々が突然、神の御霊に満たされて大胆に神の言葉を語り、「この曲がった時代から救われなさい」(40)と言って、彼らに勧めたのです。

現在が、「曲がった時代」であると思わない人々は、悔い改めることも、救われることもないでしょう。先日、自分の都合と利益を求めて教会歩きを繰り返し、約束も守らない人を除籍処分にしました。その人は、通っている教会にも自分の歩みを知られ、「今後、どこの教会籍も持たずに、聖書に基づき、異端や危ない方向に向かずに歩んでいく」と伝えてきました。除籍処分にした理由は、「そのような歩みをしていると神の国に入れなくなるという警告です。」と伝えましたが、悔い改めはできないようです。牧師の苦しみ悲しみは、そのような感覚の人たちがいるということです。

クリスチャンとは、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(38)というだけですが、悔い改めをせずに、自分を正当化して、道を踏み外していく人が多いようです。「すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。」(43)。神を恐れなければ、自分の利益の為に良いと思うことをやり続けて、人を助けることも、労わることも、休むこともなくなってしまいます。

「毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。」(47)。自らの弱さと罪深さを悟ってこそ、優しく助け合い、人と共有することができるのです。神が与える最上の喜びではないでしょうか。

使徒の働き2章36~47節

  • 2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
  • 2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
  • 2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
  • 2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
  • 2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
  • 2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
  • 2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
  • 2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
  • 2:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
  • 2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
  • 2:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
  • 2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。