「御霊と知恵に満ちた評判の良い人」使徒6章1~7節

 人は助け合わなければ生きていけませんから組織ができます。組織ができると指導者が必要になります。しかし、人間は罪びとなので、自己中心、自己利益を求めがちになります。最近のスポーツ界の指導者の問題は、昔から続いていた指導層の不適切さが現れたに過ぎないようです。政治においても同様です。宗教においても、極端なことが起こっているので注意しなければなりません。私自身は、教会の健全な成長に大きな関心があるので、教会と信者のあるべき状態を確認しましょう。

1.信仰に生きるキリストの弟子の養成

 信者は、その信仰生活の模範を最寄りの先輩信者や、日本的な「立派な人」という概念で自分の成長を心掛けます。教会は「キリストの弟子として十字架を負い主に従う指導者層」によって運営されようとしますが、気を付けなければならないのは、「教会には多種多様な人々が神によってこの世から召し出されてくる。」ということです。日本の教育の特徴は、急いで画一的で従順な人間を養成しようというところになります。「自分と人々の罪からくる咎を覚悟し信仰と希望と愛とを持って福音の祝福の中に生きる」ということが、即席にできるはずもなく、またそれを達成できるのは、わずかな人なのです。つまり、人生は、常に成長の過程であり、それを目指すことによって神の国への歩みが続くのです。成長と聖化を望まなくなった途端に、道から外れ、堕落が始まるのです。

イエス・キリスト以外の人を絶対化、理想、偶像化してはならないのです。そういう面では、人に対する怒り、失望、憧れ、なども期待が過ぎるからかもしれません。自分の成長を諦めた人は、人の粗を探し、非難を始めるものです。世の中には、そういう人が一杯います。

2.キリストを頭として愛によって結び合わされた共同体の形成

 イエス様は、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、・・・自分のいのちを与えるためである」(マタイ20・28)方なので、「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(20・26)と言われました。人が思うとおりにならず、ミスをしたり、勝手なことをしたり、さらに反発をして来た時に、怒ったり批判したりするようでは、キリストの弟子とは言えません。さらに言えば、「指導者には黙って従えばよい。」などと指導する人も、パワハラを生み出し、愛によって結びつく共同体を阻害します。「人々の中に信仰の従順をもたらす」(ローマ1・5)ことこそが、指導者の使命であり、教会の奥義ですが、それは人間的な思惑で形成されるものではないからです。

3.真理と祈りと讃美に満ちた信仰生活の指導

 これらの為には、聖書を解説書として読むということでは足りません。

聖書のことばは、聖霊が働いてこそ、私たちの魂の中に入り、私たちを霊的に成長させるのであって、それは実際に信仰生活における試練や戦いの中において顕著に起こるのです。

 この世の通俗的な生き方をやめて真理を求め、霊的な戦いを日夜覚えるからこそ祈りにおいて神に聴き、そして苦しみと困難の中で讃美することから、信仰は成長していくのです。

4.隣人に対する愛に基づいた執り成しと伝道の実践

 神を信じない人々に対して、敵意と反発を覚えるのは、祈らず、聖書に聞いていない「肉に属するクリスチャン」(Ⅰコリント3・1)です。人生は、「堅い食物」(3・2)ばかりです。よく調理して味を付け、よく噛んで食べることが大事です。物事が簡単に自分の思う通りになると思うならば、クリスチャンになる必要はありません。そこに苦しむから、信仰に導かれ、キリストの弟子になろうと願うのです。先週お話ししたとおり、「神を求めさせるために」(使徒17・27)、人も物も働きも思うようにならないのです。しかし、ある人々は、権力により、脅しにより、怒りによって、人々を思い通りにしようとするのです。

 この教会も大きくなり、外国人も増えてきました。外国に行くと、不便なこと、思い通りにならないこと、助けが必要なことが多くあります。「在留異国人を愛しなさい。」(申命記10・19)、「【主】が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。」(申命記26)6・11)とあります。日本人と同じように、外国人と接するのではなく、もっと大事にすることが必要なのです。

 この6章では、外国生まれのギリシャ語を使うユダヤ人が、なおざりにされたと苦情を言いました。ヘブル語を使う人々は、地元なので慣れていますが、彼らにはわからなかったのです。「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人」が選ばれ、執事として信者の生活の世話をすることになりました。御霊と知恵に満ちていないと、自分の都合や考えや習慣に左右されて仕事をすることが多く、相手に合った世話をできません。自分のことを長々というものではありません。人の言うことを長々と聞くほうが、大事です。弁解や言い訳が多い人が、評判の良い人であることは少ないのです。自慢話もいけません。評判が良いということは、あなたの信仰の成熟を表わします。

 信仰者の奥義としては、「良いしもべ」として「小さなことにも忠実」に生きることであると考えています(ルカ19・17)。神は全てをご存知です。

使徒6章1~7節

  • 6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
  • 6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
  • 6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
  • 6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
  • 6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
  • 6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
  • 6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。