「彼は主に従い通した。」ヨシュア14章6~14節
今日は敬老礼拝です。教会員で75歳以上の方は7名で、信仰歴は46年、38年、33年、・・・と続きます。今月の教団誌にもあるように、ご高齢の方々の信仰は、先週ローマ書の奥義としてお伝えした「信仰の従順」(ローマ1・5、16・26)の現れのように思います。私の神学校時代の舎監であった上原和雄師は、86歳でも現役牧師を続けておられ、5月にご挨拶に伺った時も、かくしゃくとして伝道と野菜つくりの話をしておられました。あすみが丘の河野姉は、75歳で洗礼を受けてから85歳になっても一人で一時間掛けて教会に通い、役員をしておられます。熊本の黒木姉も噂に聞いたことがありました。99歳でも祈りと伝道に燃えておられる姿に感銘を受けます。その他、87歳で洗礼を受けた男性は、後に末期がんであることを知り、葬儀などを全て手配した後、遺言に「これから天に凱旋するから、家族は赤飯を炊いて祝うように。」と伝えたそうです。
人生は、神を信じていてもいなくても、神の国への門を目指して生きることであると思います。マタイ8章で、ローマの百人隊長の信仰を知って、イエス様は感嘆して誉めています。「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(ローマ8・10-12)つまり、イエス様によって救いに至ったのですが、それに先立って、「信仰の従順」の奥義を軍隊教育の中で悟っていたのです。
つまり、自らが権威の下に動き、部下には権威を行使すれば従うので、神の子であれば、命令の言葉を発すれば、どのような病も癒されることを悟っていたのです。ですから、神に従った生活をしていない人が、癒しや奇跡を求めても、実際には神の権威を行使することはできないのです。私は、癒しや奇跡を願い、適えられることは多くありますが、その為には、日々神に従い、神の権威の下に生きることを守っていなければならないのです。もし、罪を犯し、快楽にふけり、神のことばをないがしろにする生活を送っているならば、説教にも力がなく、魂は救われず、奇跡も癒しも行われないのです。
「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」とイエス様は語りましたが、神のことばに従って生きないで、形式的な信仰生活を過ごしている者に対する警告です。私自身も、自分の祈りが、悔い改めて神に従おうとしていない人には、効かないことw知っています。それは、イエス様でさえ同様なのです。自己中心というのは、救いようのない罪なのです。主に従って生きるならば、それは良い実を必ず実らせます。証にある品性であり、死をも、困難をも恐れぬ信仰です。
ガラテヤ書5章19~23節を読んでみましょう。私たちは、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5・16)というように、御霊に導かれて生きる以外に、欲望に打ち勝つ秘訣はないのです。現代は、知識や情報によって惑わされています。その背後には間違いなくサタンの働きがあるでしょう。サタンは、サタンだとして現れる必要はありません。楽しそうなテレビやゲームを見せれば、人はそれに浸って逃れられなくなるからです。そういうことを、神への不従順というのです。
ヨシュアとカレブは45年間、神に従い通しました。その間に、残りの人は皆、神への不従順の故に死んだのです。「私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は、私の神、主に従い通しました。」(14・8)とあるように、多くの人が、執り成しの祈りや配慮にも関わらず、罪の中に堕落をしていって、私たちの心を挫きます。聖書の基準ではなく、自分の基準の中に生きて、それなりに生き、そして罪を犯すのです。
罪の欲望を適えようと神に願っても、無駄なことです。ところが、多くの人が、自分の欲望を満足させ、自分の願いを適えようと、信仰生活を営んでいるのです。それは、救いや祝福とは違う、履き違えた歩みです。
カレブは85歳でも「壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(14・11)と言えました。彼は、神にも、同胞の為にも、家族の為にも、自らを鞭打って従い通しました。だからこそ、壮健なのです。
節制と努力、罪との闘い、そして、聖めの道を歩み、なおかつ、人を愛し、人に仕え、神の御心を適えようとすることが、従い通すということなのです。
若い時には、未熟さ、感情の起伏、蓄積のなさ、などで多くの弱さを持ちます。中堅の時には、上司や組織の意向と自分の考えや判断の相克で苦しみます。女性もまた、家庭や子育てで苦しみます。老いては、身体の弱さや経済力などのなさなどの問題もあります。しかし、どれも、「神を求めさせるためであって」(使徒17・27)、従うことを重視する者にとっては、超えるべき課題なのです。
状況に負け、弱さを口にして、「従うこと」を止めるのは、簡単なことです。私もまた、祈らず、聖書を読まず、聖霊に導かれなければ、誘惑が襲ってきます。勝手に生きたい。楽をしたい。引退したい。しかし、祈ることによって、そのような思いから解放されます。私もまた、「私は、私の神、主に従い通しました。」と告白したいのです。
ヨシュア14章6~14節
- 14:6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「【主】がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。
- 14:7 【主】のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。
- 14:8 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、【主】に従い通しました。
- 14:9 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、【主】に従い通したからである』と言いました。
- 14:10 今、ご覧のとおり、【主】がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、【主】は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
- 14:11 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
- 14:12 どうか今、【主】があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。【主】が私とともにいてくだされば、【主】が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
- 14:13 それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
- 14:14 それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、【主】に従い通したからである。
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