「神に敵対する者にならない。」使徒5章33~42節

 初代教会は、聖霊の働きと信者の強い信仰の故に奇跡が相次ぎ、信者は増える一方でした。大祭司や宗教的指導者たちは、民衆の関心がキリスト教会に注がれるのを妬み、迫害を始めていました。教祖とされるイエス様を十字架に付けて殺したのに、却って盛んになっていくことにも困惑していました。

  弟子たちは、「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5・29)と唱えて、全く屈する様子は見えません。さらに、「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(5・31.32)と言われては、言い返すすべもなく、「怒り狂い、使徒たちを殺そうと計」(33)るのも無理はありません。

 ここで尊敬されている律法学者ガマリエルが意見を言います。その要旨は以下の通りです。

① どう扱うか、よく気を付ける。(35)

② 攻撃しないで放っておく。(38)

③ 神の裁きに委ねる。(36-39)

人の言動にすぐに反応して、喜怒哀楽をすぐにぶつける人がいますが、今日は、そういうことに関して顧みてみましょう。

印象深いのは、親に黙って神殿に残り、教師たちと議論をしていた12歳のイエス様について、「両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。…母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカ2・50.51)というところです。子供がどのように育つか、人間がどのように成長していくか、私たちにはわからないものです。自分自身でさえ、どのようになっていくかわからず、また、過去の自分に恥ずかしさを覚えることもおおいものです。神の御霊が私たちを導いてくださいます。

櫻井師が来られると、私たちは時代の動静、教会や教団の在り方、聖書の意味などについて、尽きない話をします。牧師会や総会においては、尽きない意見が出ます。人は皆、自己を持っているので主義を持ち、主張をします。それは、悪いことではありません。神ならぬ私達ですから、どのように歩み、どのように判断を付けたら良いのか、議論しなければ分からないのです。この議論や葛藤、模索をしないならば、無責任であり、正しい歩みをすることに興味がないと言えるかもしれません。自分だけが正しく歩む、人とは関わらずに生きるということは、愛がなく、他との交流を拒むものだからです。家族を愛し、仲間を愛し、同胞を愛します。

「それぞれに、時代と境界とをお定めになりました。」(使徒17・26)このような葛藤や模索は、「神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。」(使徒17・27)。リバイバルを求め、人の救いを求めることも、クリスチャンならば当然です。しかし、それがかなわず、愛する人が思うとおりにならない時に、どのような言動をするかが問われることなのです。

先週は、中国人の世界でのマナーが悪評を得ていることを話しました。腹が立った人もいることでしょう。実は日本人ツアーも3,40年前は、評判が悪く、国内でもマナーなどはなかったのです。今は、韓国が国を挙げて、日本の戦時中の行為を責めています。それに対して、反韓デモをし、ヘイトスピーチをする人々がおります。世界中がバベルの街であることはいつの時代も変わりがありません。私たちクリスチャンは、責める者、非難する者であってはならないのです。彼らは、怒りを表し、敵対行動をすることによって、自らの人生を崩壊させているのです。

しかし、「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。」(ローマ2・1)とあるように、人を罪に定めたり、攻撃したりすると、神の前に正しくなくなります。テレビ・新聞・ネット・その他の情報で、敵対的行動を起こす人は多く、現代は、一つ失敗をすると総攻撃を受け、立ち直れなくなるようなこともあります。実は、クリスチャンでも、牧師でさえ、感情をコントロールできないで、身を亡ぼす人は多いのです。私たちは、人の失敗を見たら、取り成す人でありたいとおもいます。

「御霊を受けている人は、全てのことをわきまえますが、自分は誰によってもわきまえられません。」(Ⅰコリント2・15)。信仰を持ち、聖霊に導かれるということは奥義です。私たちは、信仰を持たない人には決して理解できない者に変えられつつあるのです。人の非難や攻撃、裏切りや悪事に対して、怒らなくなりました。自分の子どもや親を殺した人を許して愛するクリスチャンが多く報告されています。奇跡です。そんなことが、理解されるはずがありません。

「私たちには、キリストの心があるのです。」(Ⅰコリント2・16)。この世の罪びとの考え方、情報、慣習に惑わされてはいけません。キリストの心に導かれ、わきまえて生きることが大事です。

使徒5章33~42節

  • 5:33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。
  • 5:34 ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。
  • 5:35 それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。
  • 5:36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
  • 5:37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。
  • 5:38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。
  • 5:39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、
  • 5:40 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
  • 5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
  • 5:42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。