「世の作為を超えて忠実に生きる。」使徒5章12~21節

偽信者への天罰があった後も、教会には奇跡や祝福が絶えず起こり、信者は心を一つにして交わりを深めていきました。神を信じない人々も多くおりましたが、信者たちは彼らにも尊敬されていました。そして、信者は増え続け、また奇跡も癒しも続いていました。

 私は、このような姿勢こそ大事だと思っております。無理な伝道をし、極端な言動で教会に人々を誘う教会や信者も、他所にはおりますが、大事なことは自分たちの信仰を深め、交流を深くし、祝福としての奇跡や癒しが続いて起こることです。そして、信仰者としての健全性や社会性が、外の人々の尊敬を得ていることです。極端な信仰や人間性は、教会に集う中で穏健なものへと変えられていくものです。自分の考え方が否定されるからといって、負け惜しみ的な言動をするものではありません。

 今日の聖句は、世の指導者たちが、このみっともない言動をします。教会が繁栄し、自分たちの指導が否定され、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4・19)と逆に諫められて、大祭司たちは、妬みと怒りに燃えたのです。そして、権力を行使して、使徒たちを捕まえ、獄舎に入れます。

 しかし、その「夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し」(19)、人々に「いのちのことばをことごとく語りなさい。」と言われます。リバイバルの時、神の導きの時というのは、そういうもので、何をしても、大胆な行動を取っても、神が働き、人々が悔い改めます。教会が始まったこの時は、まさに超自然的なリバイバルの時でした。

 さて、今日は、聖書の状況的解釈、時代的理解についても、お話しします。聖研では、聖絶と言う言葉が神によって命令されている申命記20章を学んでいます。聖絶とは、皆殺しにするということですが、これは、エジプトを出て荒野からカナンに入り、そこを定住地として住むために、特定の先住民族を殺すということです。これらの民族は、退廃した文化と宗教を持った人々であり、実際には聖絶しきれないので、イスラエル民族は長年に亘って、被害と誘惑に遭います。しかし、この聖絶と言う言葉は、後年には使われなくなり、イエス様の解釈は、全く逆な博愛精神になっています。

 Ⅱコリント11章には、「女がかぶり物をつけないなら、髪も切ってしまいなさい。」と厳しく書いてありますが、プロテスタントの教会では、そのようなことはしていません。つまり、この命令は時代的、文化的なマナーを守りなさい、ということであって、変わっていくということです。

 使徒11章には、旧約聖書に食することを禁じられた「地の四つ足の獣、野獣、這うもの、空の鳥」(11・6)を、ペテロが神に食べるように命じられ、そして、交流を禁じられていた異邦人伝道が始まるのです。

クリスチャンとして、道を誤る人、過激な信仰を持つ人の特徴は、神の人格を知り、愛を知り、神と人との交流に生きるよりも、むしろ、聖書の教条主義に陥って、極端な言葉を排他的に用い、それを伝道に使うことです。日本のような文化社会では、このような宗教と信仰者は警戒され、また健全な教会を形成することはできません。私は、それを牧会理念とし、信仰者としてのあるべき姿と考えております。

 聖句に戻ります。ペテロたちは、この解放の後、もう一度、「人に従うより、神に従うべきです。」(5・29)と大祭司に語っています。つまり、迎合も敵対もせず、大胆に神を信じて生き、語るということです。

 私は、自分の教団を愛しており、生涯仕えて生きようと考えておりますが、昔は聖職ということばが嫌いでした。それは牧師という職業を、一般信徒から区別する用語でした。ところが、アメリカの教団がそれを修正したのに伴い、日本も単に「奉仕の務め」と改めました。更に、嫌なものに「任命制」極端な「聖別」意識、その他があります。私は、社会で株式会社の社長、一般社団法人の理事長、医療法人の事務長をしています。法的制約や義務は多く、違反すればペナルティーがあります。それらを果たしている者からすれば、教団や教会には、かなり未整備、不十分、ハラスメント、いろいろなものを感じます。

 日本社会についても、その文化、慣習、教育、その他いろいろなものに関しても、違和感、不合理性、聖書的規範のなさ、利益と妥協の優先、など修正の余地を感じます。しかし、また、自分の主張を振りかざす者の、愚かさ、非社会性、人格のなさをも感じます。

 それでは如何に生きるべきか。世界を統御する神に信頼し、人の愚かさ罪深さにつまずくことなく、愛し、慈しみ、仕え、社会に敵対することなく貢献し、不合理に怒らず、聖書の理念を全うする生涯を歩もうとするばかりです。自らには厳しく、人には優しく、組織には仕え、その働きや犠牲が報われなくても、キリストの十字架を想い、その苦しみの欠けたところを補えれば、幸いとして生きるのが理想です。

 人に期待したり、怒ったりしなくなってから、キリストを身近に感じることが多くなりました。未だ不十分な自らを覚えますが、あと30年は神に仕え、成長する余地はあると思っております。

 主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたは、ほんの小さなことにも忠実だった」(ルカ19・17)

使徒5章12~21節

  • 5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
  • 5:13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
  • 5:14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。
  • 5:15 ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。
  • 5:16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。
  • 5:17 そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、
  • 5:18 使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。
  • 5:19 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、
  • 5:20 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。
  • 5:21 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。