「罪は戸口で待ち伏せている。」使徒の働き4章34~5章9節

「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・7)

 カインは、この神の警告を聞きながら、怒りと妬みに囚われ、弟のアベルを殺してしまいました。人生に、多くの誘惑、多くの失敗、多くの恥、多くの選択があります。いくら有能で環境や育ちで恵まれていても、必ず罪の誘惑はあり、選択の機会はあり、そして、人は罪を犯すのです。

 神は、その人間の選択を見つめています。ノアは、「地上に悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世記6・5)時に、人々から離れ、箱舟を作り出しました。ニューカレドニアで私の娘たちが世話になった方は、世界が滅びていくのを悟り、自給自足の生活作りに勤しんでいるそうです。私は、自分と同じような考え方をもった人が、フランスにもいたことに感銘を受けました。

 ノアの3人の子のうち、ハムは父の裸を見てあざ笑い、父から呪いを受けました。(創世記9・25)。エサウは神からの祝福を軽んじ、ヤコブはそれを命がけで求めました。その結果は、人生の祝福の違いとして現れています。「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」(へブル12・16)。遊女でありながら、ラハブはイスラエルの民に加わりたいと願い、命がけで斥候を助け、イエス様の先祖となりました(マタイ1・5)。

 ダビデは、主の箱が運び込まれた時に、力の限り踊り喜びました(Ⅱサムエル6・14)。それをあざ笑った妻のミカルは、子どもが与えられず、また、妻の愛を得られないダビデは、不倫を犯し、神の罰を受けます。しかし、ダビデは悔い改め、罰や災いを受け入れ、ひたすら神の赦しを求めます。それでもダビデには不幸が続き、シムイから呪いを受け、あざ笑いを受けます。「主は私の心をご覧になり、主は彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。」(Ⅱサム16・12)。これが、ダビデの信仰者としての真骨頂です。彼は、いつも神を見て生きるのです。

 今日の聖句は、聖霊のバプテスマを受けた使徒たちが、力強い歩みをして信者が数千人に急激に増えた後のことです。信者は、「心を一つにして、全てを共有にしていた」(使徒4・32)ということですが、歴史的に急成長の時や順調になると、必ず、未だ魂の救われていない人々が教会に加わってくるのです。子供の急成長や優等を望む親は、必ず多くの問題を余計に抱えなければならないように、教会も成長や増加を急いで望み、図ろうとすると多くの問題を抱えることになります。その原因の多くは、魂の救われていない信者が、敬虔な信仰者を装い、教会の指導者になることを計ろうとするからです。

まず、信仰者は全て試練によって聖められ、選別されるのです。「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊い」(Ⅰペテロ1・7)のであって、信仰者には必ず試練があるのです。「魂の救いを得て」(Ⅰペテロ1・9)いない未信者や偽信者には試練がありません。なぜなら、彼らは、試練に挑戦し、信仰を守ろうなどと、考えないからです。

 アナニヤとサッピラは、目先の良く、子知恵のある夫婦でした。クリスチャンの力強さと結びつきの深さを知って、いち早くその一員になろうとしました。信者たちが、惜しむことなく、自分の財産を教会に献げているのを知り、自分たちも多額な献金によって教会で地歩を占めようとしました。

 献金や奉仕は、信仰の尺度ではあります。それらは必要条件であり、自ら信仰があるといっても、献金や奉仕をしない人は、神も人も教会も、その人を信仰者として認めることはありません。ところが、それは十分条件ではないのです。献金や奉仕をしているからといって、神も教会もその人を信仰者として認めるわけではないのです。つまり、本人は、自分を信者であると思っても、聖めがなく、自己犠牲ができない人は、神が信仰者としては認めないのです。その人々は、問題が起こった時に、必ず躓きます。不満やつぶやきを言い、教会や牧師を攻撃します。

 ところが、教会や牧師にとっては、そのような人を攻撃したり、批判したら、聖めや自己犠牲がないので、神の祝福を得られず、またつまずいていき、ある場合には信仰の破船に遭います。「自分を捨て、自分の十字架を負わない」(マタイ16・24)人は、主の弟子とは言えないからです。

 信仰というものは容易いものではありません。無代価で天国に行けるのですから、そう易々と信仰者にはなれないのです。「罪は戸口で待ち伏せして」います。毎日の生活で、自らが罪を犯すと、他人の罪を責め立てたくなります。批判的な人が敬虔なクリスチャンになれるはずはありません。自分の思い通りにならないからといって、不満を言い、放棄する人が、信仰者として認められることはありません。

先週、「罪と死の原理」(ローマ8・2)によって惑わされ、信仰をもって「いのちの御霊の原理」によって生きられないクリスチャンが多いことをお話ししました。先々週は、霊の戦いに勝ち抜くためには、夫婦が愛し合い、祈りあわなければならないことをお話ししました。ダビデは、多重婚をしたために、妻の愛と支えを得られず、試練と艱難と不幸の中を歩みましたが、それでも信仰を失いませんでした。アナニヤとサッピラは、夫婦が互いに偽りを言って、不誠実に生きたので、どんなに長生きをしても、害になっただけでしょう。「主を恐れることが知識の初めである。愚か者は、知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1・7)7)

使徒の働き

  • 4:34彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
  • 4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
  • 4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
  • 4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
  • 5:1ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
  • 5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
  • 5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
  • 5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
  • 5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
  • 5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。
  • 5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」