「人生の礎は祈り。」使徒の働き4章11~21節

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」(マタイ4・24-26)

 九州南部、中国地方、近畿地方などで、特別警報(50年に一度の大雨)が出され、その濁流が市街地を覆う状況が報道されています。聖書のこの箇所を見ても、洪水は頻繁に起こっていることがわかりますし、歴史が証明しています。それではなぜ、洪水に流されるような場所に家を建てたのかという疑問があります。被災地の方々には、申し訳ありませんが、聖書はそのような場所に家を建てた人を愚かと呼んでいます。皆さんの家は、どのような所にあるでしょうか。

状況によって左右される人は、砂地に家を建てるようなものです。教会員の皆さんがどのような判断によって生きているかは、自由ですが、大事なことは、惰性ではなく、判断をして生きることです。それによって、強くなるか、弱い者で留まるかが分かれてきます。

 日本人は、「しょうがない。」という言葉をしばしば用います。アメリカでは、「助けてくれ。」と言わない人は助けません。努力をしない人には、助けは来ません。失敗した人に対して、可哀そうだと思って、助けたり、励ましたり、誉めたりする人が多くおりますが、それは、相手をだめにします。神がいちいち裁くことがなくても、人生は自分の不始末で不幸になり、敗北します。神が裁くということを忘れてはなりません。

 防火管理者講習を受けました。「正常性バイアス」という災害心理学の用語を学びました。人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)を指します。何か起こるたびに反応していると精神的に疲れてしまうので、人間にはそのようなストレスを回避するために自然と“脳”が働き、“心”の平安を守る作用が備わっています。ところが、この防御作用ともいえる「正常性バイアス」が度を越すと、一刻も早くその場を立ち去らなければならない非常事態であるにもかかわらず、“脳”の防御作用(=正常性バイアス)によってその認識が妨げられ、結果、生命の危険にさらされる状況を招くことになるのです。

 このことは、健康にも同様です。煙草を吸い続けたり、太っても気にしなかったり、身体に不調があっても対処をしないことなどです。私たちは健康を害した人々に日常的に接しているので、非常事態であるのに、なんの対応もせずに、障害を持ったり、死んで行ったりする人々に困惑しています。

 私たちは、「罪と死の原理」(ローマ8・2)によって惑わされ、信仰をもって「いのちの御霊の原理」によって生きられないのです。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・御霊は、神の御心に従って、聖徒の為に執り成しをしてくださるからです。」(ローマ8・26.27)。祈り、特に異言の祈りを十分にしないと、私たちは、「いのちの御霊」によって導かれずに、「罪と死」に捕らわれてしまうのです。

 今日の聖句、ペテロとヨハネは、「無学な普通の人」(4・13)でしたが、「聖霊に満たされて」(8)、議会の尋問に際して「大胆」(13)に語りました。大祭司を始め、指導者たちは、「返す言葉もなく」(14)、「あの人たちをどうしよう。」(16)と困惑し、「厳しく戒めよう。」(17)とします。しかし、「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(19)と反論したのです。指導者たちは、御霊にみたされていないので判断することができず、「ふたりを罰するすべがなかった。」(21)

 祈り、異言の祈りというのは、どのような考え、常識、知恵、判断よりも勝った、神からの執り成しです、教えの手段です。全ての判断、全ての行動、暮らしのすべてにおいて、この祈りなくして行うことは、虚しく、「罪と死の原理」に左右されてしまいます。

 祈りというものは、「~時間祈った。」などという儀式ではありません。念仏のようなものでもありません。その問題について、神に求めながら異言の祈りを、長く祈り続けると、聖霊が私たちに教えてくれるものです。聖霊が教えてくれるということを信じない、多くのクリスチャンが過ちを犯しています。人生の礎というのは、祈りを基盤に築き上げることなのです。神に聴くということが、生活の基本なのです。

 ある場合には、自分が聖書信仰だと思っているものが、謝って自分を導くことがあります。信仰は知識ではありません。聖書を読みながら、まさに、祈る、ということが大事なのです。チェックポイントは、以下の通りだと私は考えています。

① 否定的・攻撃的・排他的なものではない。

② 自らにとって十字架を負うような犠牲を強いられるものである。

③ 自らを聖め、強くし、変えるものである。

これらのことを導かれながら、バイアス無しに信仰に生きる人生は、強き土台に築き上げられた人生となるでしょう。そうでなければ、やはり時代と社会に流されていくことになるでしょう。

使徒の働き4章11~21節

  • 4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
  • 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
  • 4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
  • 4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
  • 4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
  • 4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
  • 4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
  • 4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
  • 4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
  • 4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
  • 4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。