「戦いに立ち向かう為に。」エペソ5章22~33節

ワールドカップで盛り上がっています。女子サッカーもありますが、やはり男の戦いとして強靭な肉体と技術を尽くす男子サッカーは見ごたえがあります。昔は戦争によって殺戮を繰り返していた国家間の争いが、スポーツ、それもフェアプレーによって見事なショーになっていることは、素晴らしいことです。

  先週は、人間が歴史的に生き残るための戦いを繰り広げてきたこと、その為に男は強く、妻は夫をサポートし、子どもを育て上げる役割を果たしてきたことをお話ししました。社会が安定し、文化が形成されるにつれて、殺戮ではなく、能力による競争に変わってきて、その為の力を形成するために教育や制度が整ってきたのです。そこでは、女性もまた教育や能力を付けることによって、競争に参画するようになってきました。それは、参画することが目的ではなく、家族を守り、自らの貢献によって社会に寄与し、争いのない社会を作り上げることなどであったと思われます。

 神は、それらの人間の営みを見守りながら、人が神の国にしか、究極の幸せ、平和、愛は実現しないことを悟るように働きかけてきたのです。しかし、人間は罪びと、つまり自己中心ですから、容易には神に降参することはなく、神を信じ従うことはしません。

 そういう心境、不従順の姿勢は、歴史的には被征服者の苦難や迫害も原因したかもしれません。ともかく、男にとって、服従するということは生殺与奪の権を相手に与えるということであり、簡単にはできないことです。そして、それは妻や家族をも含むので、大きな決断です。

 歴史的に日本は、征服者・支配者が残虐な行為をしておらず、表面的にでも服従すれば、命は守られてきました。それが特に変わったのが、太平洋戦争の戦前、戦中です。思想統制から、生活の統制まで至るところに軍部の支配がありました。明治以降の日本は、日本ではないと、司馬遼太郎が言っておりますが、その思想統制は、世界列強の支配に対抗するための、強烈な緊張感からのものであったようです。戦前に、欧米の支配を受けなかったのは、日本とタイだけでした。

 今日の聖句は、夫婦が愛し合い、幸せな家庭を作り上げるためのように思われますが、この後の6章10節から記されている戦いに備えてのものであることを知っておかなければなりません。

「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」

人は、一人で悪と戦い続けるほど強くはありません。短期間ならば可能ですが、この戦いは長期に亘り、そして日常的なものでもあります。夫婦が仲良く愛し合い、支え合っていなければ、負けてしまいます。

 夫婦仲が悪いとどうなるでしょうか。戦う気力が湧いてきません。戦う健康が維持できません。落ち着いていないので判断を誤ります。家族の支援を得られません。自暴自棄になって、自分を破滅させてしまいます。

 私は、昔からこの聖句を語られる時、夫婦だけの甘ったるい愛の姿が示されて、なにか腑に落ちないものを感じておりました。これでは、夫婦第一主義になって、夫は妻にいつも愛情を要求されることになります。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、…共に天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2・3-6)という前提に立って、この夫婦愛が必要なのです。

 私の妻は、この日の為に何時間もピアノの練習をしていました。そして、花撒きの花を摘み、花弁をタッパーに詰めて冷蔵庫に保管していました。妻は、日本では有名な医師で、今週もわざわざ岐阜県から視察に医師が来るほどですが、そのようにして教会員を愛し、教会の為に献身をしています。私は、そのように献身的な妻を守る為に自分のいのちを掛ける覚悟はしています。

 夫婦というものは、男同士、女同士ではできない協力関係を持つことができます。それは、神が夫婦として人を働かせるからです。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女と似彼らを創造された。」(創世記1・27)。

 「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」(28)とあるように、妻を愛し、女性を労わるということは、その人の総合性を現わしています。妻を愛して大事にすることができない人は、自分を認めることができず、弱さや情緒を否定して、攻撃的、感情的、局所的な行動をとることになります。妻や家族を「養い育て」(29)るという、継続性や忍耐こそが、男性を健全かつ総合的なものに成熟させていくのです。

 そして、夫婦がそのように円熟、成熟し、強く愛し合うことによってこそ、この世の霊の戦いに勝ち抜くことができるのです。

エペソ5章22~33節

  • 5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
  • 5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
  • 5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
  • 5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
  • 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
  • 5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
  • 5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
  • 5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
  • 5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
  • 5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
  • 5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
  • 5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。