「信仰がこの人を強くしたのです。」使徒の働き3章12~19節

私の妻は、貰い上手です。人から貰った物を大事にし、お古の服でも気にしないで着ています。人に助けられるのが下手な人もいます。自分が苦しく、一人では難しいことでも、助けを求めず、我慢しています。上げるのが得意な人でも、貰うことや助けを求めることは、苦手な人が日本人には多いようです。「人に迷惑を掛けるな。」と育てられた悪影響のせいでしょうか、その結果、交流が下手です。

  今日の聖句の主人公は、人の助けがなければ生きていけない、生まれつき足の萎えた人です。毎日、神殿の門の入り口に、数人の人に運ばれてきて、人々に乞うのです。ともかく、彼は、乞わなければ生きていけないので、必死に声を掛けます。実は、これは凄いことです。恥ずかしいなどと考える余地はありません。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5・3)とありますが、その貧しいという言葉「プトーコス」は、極度の、みじめな貧困を意味しているそうです。ウィリアム・バークレーによると、へブル顔では「アニ」或は「エビオーン」であり、最初は「貧しい」を意味し、「貧しいゆえに勢力も権力も援助も名誉もない」という意味に変わり、「勢力が無い故に他人から踏みつけられ、圧迫される。」となり、最後に「この世から完全に見放されて、全ての希望を神に懸ける人」という意味になったと開設されています。詩篇34・6、35・10、68・10、72・4、107・41、132・15、は、同じ言葉が用いられ、慰められています。従って、バークレーはここを、「自分が全く無力であることを知って、ただひたすら神により頼む人は幸いである。」と訳しています。

 バークレーは続けて、「神の御心を行うことができるのは、自分が全く無力であり、全く無知であり、人生を生きるのに全く無能であることを知って、ひたすら神により頼むときである。信頼してこそ、服従がある。神の国は、心の貧しい者が所有する。なぜなら、心の貧しい者とは、神なしには、ひと時も生きられないことを自覚して、神に頼り、神に従うことを学んだ人のことだからである。」と結んでいます。

 この乞食は、人に対して大声で助けを求め続けられた人ですから、神に対しては尚更、助けを求めたのではないでしょうか。ともかく、神が答えたことは事実です。ペテロが祈ると、「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって真っ直ぐに立ち、歩き出した。」

 彼は、大声で施しを求め続ける有名な人ですから、「彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。」人々は、驚きます。「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。」かれは、「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」とあるように、ただ、神を求めることによって癒されたのです。

日本人は、神よりも、人の目を意識します。だから、言い訳を第一にします。言い訳とは、自己解決であり、その段階でどこからの助けもいらないとして、しょうがなかったのだ、と正当化してしまうのです。こういう思考の人に神が働くこと、助けることはできません。そういう人にとっては、信仰生活も、神への言い訳の手段に過ぎません。どうにか、普通に目立たなく、人に責められなければ、それで良いのです。

 ところが、人はそのように罪深くても、神は救おうとされるのです。言い訳の利かないことが、誰にも起こるのです。日大ラグビー部の監督を始め、多くの人にも言い訳の利かない、誰の目にも明らかな過失や罪深さが暴露されるのです。それでも神は取り成します。「あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。」(17)。

ところが、そんな時、そういう人のことを非難する人に対してはその瞬間、神は、その非難する人に対する救いの手を閉ざします。神は生きておられ、「他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。」(ローマ2・1)。

 30年前、私が不整脈になった時に、医師である妻が言いました。「医学では完治しない。薬が効いても副作用で他が悪くなる。」私は、なるほどと思いました。「神に頼り、自らの為すべきことを果たしていき、後は命も人生も神に委ねるしかないのだ。」そういえば、38年前の不整脈の時、動けなくなった身体は聖霊に満たされ、一瞬で癒されました。問題なのは、その後の為すべき自己管理をしていなかったことでした。むろん、その後30年、不整脈は起こっておりません。

 信仰、神への信頼は、人格的なものです。単に、礼拝に出ているとか、聖書を読んでいる、献金をしている、などというクリスチャンのマナーを超えたものです。そして、神は、神を信じる者をないがしろにすることはありません。

 罪とは、自己中心ということです。神中心ではないことです。自己中心でいくら努力しても、物事は解決しないようにできています。人には神が必要なことをわかり、「悔い改めて、神に立ち返る」まで、あなたの不安や苦しさは解決しないでしょう。信仰でなければ、人は強くなることはありません。

使徒の働き3章12~19節

  • 3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
  • 3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
  • 3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
  • 3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
  • 3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
  • 3:17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。
  • 3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
  • 3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。