「自由人として生きる。」使徒の働き2章38~47節

今回の合同礼拝では、他の教会の人々を励ましたいと接待しました。牧師が8名も代わったり、信者が少なくなる中で教会を支え続けてきたことを慰労したいと思ったからです。世界中の教会が、そのような忠実な信者で保たれているのです。凄いことです。

  ノーベル文学書を取り、今回、ナイトに叙されたカズオ・イシグロの『日の名残り』を読みました。貴族とその邸宅に忠実に仕えてきた執事が、自らの働きに使命を持ち、品格を持って生きることに尽くして来て、主人が死に、自らの人生を振り返ります。仕事と主人に忠実なあまりに女中頭との淡い恋も意識から外し、老いていきます。そして、20年後、恋の思い出を求めて彼女に会いに旅立ち、新しい主人の為の女中頭を頼もうとするのですが、もはや過ぎ去った交流でした。年老いてアメリカ人のジョークの相手もできず、昔の主人の貴族との交流のみが誇らしい思い出ですが、実はその主人も、イギリスを裏切ってナチスと結びついたということで、非難されて失意のうちに死んだのでした。旅の終わりに、海辺で見知らぬ人々が親しく交流している様子を見て、自分もアメリカ人との交流法を身に着けようと決心するのですが、日が暮れて行くのを眺めながら、涙が止まらなくなります。自分には、「運命をご主人さまの手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。」と悟って、もはや自らの人生を始めるには遅すぎることを意識するのです。日本の人々が忠実に生きることに使命感と誇りをもって来たことと同様なものを感じました。世の中は、そのような目立たない謙遜な人々によって保たれてきたのです。

  ダーリントン卿は人の好さが悪意に満ちた人々に利用されていることを、甥が諫めても聞き入れず、国を陥れたとされて失意の死を遂げます。スティーブンスも、女中頭の働きかけを眼中に入れず、虚しい老後を迎えます。主人を選ぶということをしなかったこと、自らの判断を持たなかったことが誇りであったけれど、実はそれが愚かなことだったのです。

 フロムの『自由からの逃走』には、「義務や責任は社会的な常識や期待に関わることであるが、自分が考える思考、感じる感情や欲求や意思が、社会的に周りのひとから期待される社会的常識などによる思考や感情や意思や欲求で形成されていて、本当に自分自身に由来するものなのかを問いかけている。」と解説されています。

 野外礼拝では、「自由人は失敗を恐れない。自らの人生なので失敗や苦労を味わいながら成長し、強くなることを求める。奴隷は、主人の目を伺って生き、自分の判断をせず、失敗をして怒られることを恐れる。」と述べました。19人分の料理を作りましたが、全て自己流であり、あまり食べたことのないものだったと思います。よく考え、準備し、手順を整え、さらに大きな失敗を覚悟しなければできません。それを、教会員には見て欲しかったのです。これからは、皆さんを少人数で招待しようと思います。

 医者でも、教師でも、上司でも、さらには牧師でも、信頼し黙って従うような愚かなことはしてはいけません。私自身は、教団にも、先輩たちや指導者にも、自分の信念と信条とは違うものを感じ、決して迎合しては来ませんでした。しかし、この教団に属することを神のみ旨と信じ、教団の方針と指導には従ってきました。それは、主体的に生きるからであり、先輩たちが失敗しても、全く躓きませんでした。また、同様に、信者に対しても、その判断と自由を認め、忠実でなくても、熱心でなくても、失敗をしても、罪を犯しても、相手の動静に関わらず、牧師として執り成し、祈り、配慮してきたつもりです。自ら為すべきことをするのです。信者におべっかを使うことはせず、厳しすぎて干渉することもせず、聖書を教え、自由人としての成長を願っています。

 さて、今日の聖句ですが、信者になった人々は、悔い改めたのです。そして、自分のこれまでの生き方が間違っていたと認めたのです。そして、「曲がった時代から救われ」る行動を起こしたのです。つまり、洗礼を受け、弟子として使徒たちの教えを堅く守り、信者同士の交わりをして愛餐の時を持ち、祈りをしていたのです。

 そして、一緒に生きる中で聖霊の働きによって、神の臨在による「恐れが生じ」たのでした。この恐れは説明が必要です。人間というのは、放漫な存在で、神をも人をも自分の為に利用しようとし、自己中心なのです。しかし、神を信じることによって、その顕現を経験し、自分は取るに足らない存在であることを悟るようになります。信者としては、この段階にならないと、思うとおりにならない時に批判的なものが抜けません。

 神を求めない人に、奇跡も祝福も神は起こしません。「神はあまり必要ない、自分の力で生きる。」「神を求めるなんて恐れ多いことをしないで、平凡な日々を生きる。」などということが、実は、罪の奴隷の状態であり、神なしで生きることになるのです。人は、依存や頼るということを嫌がりますが、自由になるためには、神が必要であることに気が付かないのが、危ないのです。

スティーブンスは、自分の判断を捨てて主人中心に生きてきましたが、それは、彼の意見を求める主人に対しても不忠実だったのです。最も信頼する執事が、意見を持たないので、判断を誤ったのです。聖書に「自分を捨て自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」(マタイ16・24)とありますが、それは罪に捕らわれた自分を捨てて、主の弟子として自分の意志で生きるということです。そんな弟子たちが集まったら、共有もでき、共同生活もできます。そして、神の祝福が豊かに注がれます。

使徒の働き2章38~47節

  • 2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
  • 2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
  • 2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
  • 2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
  • 2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
  • 2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
  • 2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
  • 2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
  • 2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
  • 2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。