「自分の息子に言いなさい。」申命記6章20~25節

父の日は6月の第3日曜ですが、教区の集会との都合で、当教会では第4礼拝に祝っています。母の日は、母親の愛への感謝として社会では定着していますが、父の日は、未だそれほど定着していません。それは何故なのでしょうか。

  母親は、直接的に子供を愛し、慈しむ役割を果たしているのに対して、父親はもっと多面的な役割が必要です。少し列挙してみましょう。

① 家長として、敵や災害や試練その他から家を守る指導的な役割。

② 家長として、家族を教え育て、家系を存続させる。

③ 家長として、家族に衣食住を確保する。

 伝統的には、父親がそれらを果たした上で、母親が衣食住を保ち、世話をするという役割を果たして、その家系が保たれてきました。現代では、国家や社会が安定してきているので、父や母の役割や働きは変わってきています。しかし、それが国家などによって保たれない社会では、未だ女性や母親の立場は弱く、権利や自由が限られ、ある場合には拘束されています。つまり、闘争の社会では、男性はそれに勝ち抜かなければ、家族の存続が達成できないために、妻子の意見や自由を保証している暇がなかったのです。

 教育は、昔は父親の権威の下で行われ、今日の聖句のように、神の教えと信仰を守るだけで十分でした。ところが、社会が安定し、文化が形成されてくると、それにあった教育が必要になってきます。そして、父親の能力では対応できないようになり、別な教師や指導者が必要になってきます。しかし、それも父親の経済力や権力に依存していたために、妻子は父親への服従は余儀なくされていました。

 女性に働く機会が与えられ、権利や教育が施されるようになって、父親の絶対性が保たれなくなってきたのは事実です。それに対抗し、女性を学ばせないようにする社会や父親が今でも存続しています。

 また、子どもを社会に適応させ、強く生きるように教え育てるのも父親の役割です。そこでは、父親と仲が良く、性格が良い、というよりも、家系の存続のための強さの訓練が必要です。子どもが可愛くても、甘やかしたら社会で生きていけない、という考えのもとに厳しく育てようとするのが父親です。社会には、敵が多く、人が良くて騙されることや弱くて攻撃され脅され支配されることなど当然です。それは現代でも同様です。

 父親の役割は、自分に服従させるのではなく、社会で強く生きて敵や試練に対処して「いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。」(24)。その為には、父親自らが「神の命令を守り行うこと」が必要でした。ところが、多くの父が、神に従うことなく、家族を従わせようとして破綻してしまったのです。「私たちの父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、【主】の目の前に悪を行い、この方を捨て去って、その顔を【主】の御住まいからそむけ、背を向けたからです。」(Ⅱ歴代誌29・6)。

 社会には敵がいないかのように平穏になってきましたが、実際には罪によって私たちを陥れるサタンの罠があり、また罪によって自己存続を図る指導者や人々によって、侵害を受けています。注意しなければならないことは、神を信じないこれらの父親たちが、盲目的に罪の奴隷となり、従わせられていることです。

 「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4)とあるのですが、父親が信仰を持っていなければ、その姿は子どもに従順や尊敬の気持ちを与えることはできません。理屈や威張ることによって、父親の権威を振りかざし、子どもを教え育てることはできないのです。また、優しく、子どもと仲が良くても、子どもを教え育てていないと、その子どもは社会で破綻し、幸せになることができないのです。

 試練や苦難に遭った時に、愚痴や弱音を吐く人がいますが、そういう言葉を吐くと、人間はやはり逃げの姿勢になり、罪に負けてしまいます。私自身にもいつも戦いがあり、力が必要です。もし、私を守り、私に教えてくださる父なる神に目を向け、祈り続けなければ、愚痴を言いそうになります。神を信じるということは、戦いを覚悟し、必ず幸せになるという決意を保つことです。

 妻を悩ませてはいけません。子どもに心配させては、生きる気力を失います。「私たちがしあわせであり、生き残るため」には、「私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」義となるとは、神との関係が義であり、神がその人を必ず守り、祝福されるということなのです。

 神を信じないで、浅知恵や計算で生きる人は、碌な生き方はできません。私は、最近、男性の真価は、退職し、老年になってから、明らかになってくるような気がしてきました。仕事上の地位や働きなど、退職したら、風に飛ばされて何も残りません。親しい友も、疎遠となりさって行きます。趣味や教養も、自分の余暇をもてあそぶ為であるならば、虚しく過ぎ去っていきます。多くの妻や妾を抱え、多くの子どもを得たソロモンは、堕落の最後に「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者の書2・11)として死んでいきました。

申命記6章20~25節

  • 6:20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、【主】が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と言うなら、
  • 6:21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、【主】が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。
  • 6:22 【主】は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、
  • 6:23 私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。
  • 6:24 それで、【主】は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、【主】を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。
  • 6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」