「この曲がった時代から救われる。」使徒の働き2章36~42節

近の不祥事を考えると、やはり立て前の社会だと思わされます。責任が問われ、罪があばかれそうになると、責任が問われないような道具立てを繕うわけです。本音、本心で生きていないのです。

  日本人は、他人の目を気にするので、失敗や不始末を知られないように、真剣、真実に生きることを、自己判断で生きることをしていないように思われます。国や社会、会社や組織のせいにすれば言い訳が成り立つので、自分の判断や意志で行動することに慣れていません。病気やケガでも医者や医療機関に任せ、自分の判断で治療法や医療機関を選ぶ人は、非常に少ないのです。しかし、それはどのようになっても、自分の選ぶ人生ではなく、医療に関しては、病気が重くなったり、死んでしまってはどうしようもありません。

  封建制度の下では、潘が潰れれば藩士は路頭に迷うので、潘を守ることに一丸となり、犠牲が出ても仕方がないと考えられていました。明治以後も、国や会社が潰れれば生きていけないので、国民や社員が犠牲になることは覚悟されていました。

 このような状態を奴隷と言います。そして、支配者は、奴隷に対してどのような扱いをしようと隷従を要求します。やっと明らかになったのは、日大アメフトや女子レスリング会、そして相撲界などのスポーツ界ですが、政治の社会では、相変わらず隷従による嘘や偽装がまかり通っています。そして、国民は、それらに対して怒りの声を上げますが、自らが自由意志で自分の人生を生きていないことには気が付いていません。

 チャップリンが『モダンタイムズ』で指摘した部品の一部としての存在しかない人間として生きる愚かさ、虚しさに気が付かずに、ただ生きることを目的としている奴隷なのです。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ローマ6・16)。仕事をするということが給料をもらう代価の為に自己判断や自由がなければ、それは奴隷なのです。生きるということに関して、自分の意志や希望がなければ、それは奴隷なのです。

 テレビや映画で時間を過ごし、美味しいものや娯楽に喜んで生きるのは、奴隷なのです。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5・1)。奴隷だからこそ、例えば、健康になる為の努力さえできず、食事を制限できないのです。奴隷だからこそ、自分の意志と判断でお金を節約し、神の為、人の為に使うことができないのです。自分の快楽に捕らわれているのです。それらは、自由ではなく、不自由です。

人に干渉されたくない、関わり合って自分の自由を損なわれたくない、と考えるのは、罪の奴隷の特徴なのです。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Ⅰペテロ2・16)。

 これまで見てきたようにペテロもまた、イエス様を信じ、弟子として選ばれながらも、罪の奴隷としての勝手さ、愚かさがありました。しかし、かれは聖霊のバプテスマを受けてから、全く変わり、神の奴隷として使徒職を全うし、キリストの弟子として自らの意志で、逆さ十字架の刑にまで服して行ったのです。むろん、そこには神の栄光があり、イエス・キリストの歩みと重なるものです。

 現在の労働は、週40時間を超えた労働をしてはいけないことになっています。もし、収入を得るための労働であれば、それ以上を通常で働かなければならないのでしたら、辞めたら良いです。しかし、その働きを神からの召しと受け留め、自らの意志をもってするのでしたら限度はありません。しかし、家庭を損なうような労働ならば、それもまた奴隷です。

家庭もまた、ただ美味しいものを食べ、楽しく過ごすだけのものであれば、主にあるものとは言えません。主にある躾と生き方を子供たちに教え育てるものである必要があります。私自身、それが完全にできたわけではなく、深い悔い改めを感じています。子供が成長して、神を信じていないことほど、クリスチャンとして苦しいことはありません。精一杯、育ててきたつもりですが、救いは神のものです。信じる信じないは、本人の意志であり、神の御心です。

「この曲がった時代から救われなさい」は、曲がっていることに気が付く人だけへのメッセージです。この社会が曲がっており、自分の生き方が決して正当なものではないことに気が付く人は稀です。罪の奴隷である人が、自分の状態を開放しようとは思わない、ということは悲惨なことです。学生時代に読んだエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を思い出します。

私たちは、喜びと解放の自由な生き方を示すことによって、彼らに福音を掲示したいのです。

使徒の働き2章36~42節

  • 2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
  • 2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
  • 2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
  • 2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
  • 2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
  • 2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
  • 2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。