「メネ、メネ、テケル」ダニエル書5章21~28節

9月1日の説教で、イザヤ及びエレミヤの預言通りに、ユダヤ人が捕囚から解放され、エルサレムの神殿建設のために財を与えられて戻されたことをお話ししました。今日はその続きです。

 日本人は、試練があっても、嵐が過ぎ去るのをじっと待って、その後に建て直すというのが人生観のように思われます。農耕民族の特徴でしょうが、聖書信仰とは違います。クリスチャンとしては、万事を益としてくださる神信仰と、自分にとっては益ではないものを受け入れる信仰が大事なのです。多くの人が自分観点で神の御心を探り、願いが叶えられることを祈ります。御利益信仰というものはどうしてもあります。ただ、信仰というものは、個人的には神を信頼して歩み、人を愛し助け、人格が成熟・聖別されていくことが必要です。そのようなことは、聖書的歴史観や神の統御の理解がなければなりません。つまり、神の国に繋がる世界観が必要なのです。

 私には、ロシアで共産主義の下で聖職者の多くが虐殺され聖堂が壊された後、70年を経てハリストス大聖堂や多くの見事な聖堂を復興させたロシア正教の信徒の歩みが気になって仕方がありません。現在、1億4千万人の7割が敬虔な正教徒です。

 日本でも1605年に75万人のキリシタンがおり、250年の大迫害を経て数千人のキリシタンが残っていたという歴史があります。実は発見された後に明治政府による大迫害がありました。

その中でも苛烈を極めたのが、22歳の女性・岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。1週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け、18日目には雪の中に倒れたが、それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は1873年(明治6年)に浦上に帰った後、1925年(大正14年)12月に浦上の十字会で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げ、赤痢天然痘の治療看護に献身し、孤児養育もおこなった。

 戦前の日本は、富国強兵の一員として満州やその他の国まで行ってしまいました。それが他国であり、その住民がいるという意識はなかったのでしょう。洗脳されてしまう人格形成の欠如が原因です。

 戦後は、経済成長こそ幸せであると洗脳されました。実際には、自然と家族が崩壊しました。私には、人間力アップを目指すような思考が、日本を洗脳しているように思われます。努力を強調する社会と思考には、互いに愛し合うということが無益になります。

 世界中が個人的にも組織的にも国家的にも豊かになろうとしています。しかし、歴史を見ると、繁栄を目指し、繁栄を得た国家と人間は間違いなく破綻しています。成果を求める人生は、たとえクリスチャンであっても、実は神以外の、自己実現、自己の幸せを求めたものです。聖書信仰をこの世の欲望の中に取り入れているのです。

 マタイ福音書の山上の垂訓を読めば、イエス様の教えが、この世の論理と全く異なることがわかります。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6・31)という教えは驚きです。誤解してはならないことは、それを考えるなというのではなく、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(6・33)ということです。

 今日の聖句に戻りましょう。栄耀栄華を極めたネブカデネザル大王は「いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになる」ことを知りました。息子であるベルシャツァル王は、「これらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」そして、エルサレムの神殿から略奪した金銀の器を用いて、千人の大宴会を開いたのでした。神に献げるための器で、人間が飲み食いしたのです。突然、「人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側のところに物を書いた。」(ダニエル5・5)。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」、この言葉を私たちに向けられたとすれば、「あなたの人生は神の国に行くには軽い。」ということになるでしょうか。

 「自分の宝は、天に蓄えなさい。」(マタイ6・20)とのお言葉は、教会に一生懸命献金しなさいということではないと思います。「自分の生き方は、天から見ておられる神に報いられるものでありなさい。」ということだと思います。

 昨日は、台風が近づく中で診察を行いました。休日医療も夜間医療もないので、熱を出したり吐いたりする患者さんを診察できました。インフルエンザも一人いました。損得から言ったら大損です。しかし、人に仕える、愛するということでは、信仰者としては当然なことです。信仰というものは、決して悟りではありません。良きサマリヤ人のように、助けを必要としている人を助けるということです。行動を起こさないで、神の国に宝を積むことはないのです。

ダニエル書5章21~28節

  • 5:21 そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。
  • 5:22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。
  • 5:23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。
  • 5:24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。
  • 5:25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
  • 5:26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
  • 5:27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。
  • 5:28 『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」