「もし神が私たちを助けなくても。」ダニエル3章17~27節

ネブカデネザル王は、ダニエルが解き明かした夢に喜び、バビロン帝国が金の頭だけでなく、永遠に続くようにと全身が金で出来た26mもの高さの像を造り、これをひれ伏して拝むように全ての人に命じました。そして、拝まない人は、燃える炉に投げ込まれると警告されたのです。これは偶像を拝まないユダヤ人に対する攻撃です。

私たちはキリスト者としての信仰を持っていますが、確信を持っていない人々は、信仰や信念を持っている人々を揺さぶり、誘惑をします。背後にはサタンの狙いがあるのですが、信仰を固持することは神の国への道であり、それを揺さぶることによって自らの不信仰を正当化するのです。実は、信仰に入っている人々にも、処世や興味で入信することは多く、そこから真の信仰者になるか、脇に反れるかは、その人の判断と責任、そして人格に依るのです。それを結果的には選びとして理解するのです。

シャデラク、メシャク、アベデネゴは、「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(3・16-18)と大胆に答えます。王よりも、自分たちの信じる神を上位に置くのです。日本人には、この位置づけをできる人はあまりいません。仕事を家族よりも上位に置き、信仰は生活を左右するものとしては位置づけられず、都合によって簡単に脇に置かれます。そういう人が、いざという時に神の助けも家族の助けも得られることは得ないでしょう。追随型の人が有能な仕事ができることもありません。

さらに「しかし、もしそうでなくても」という言葉が凄いのです。神様は自分の味方と考えて、何度も助けてくださる、と考える人は、自己中心です。ヨシュアが指導者になりたての頃、抜身の剣を持った人が前方に立っていました。ヨシュアが、「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」(ヨシュア5・13)と尋ねると、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」(14)と答えます。ヨシュアは自分の傲慢にすぐに気が付き、「顔を地に付けて伏し拝み」ました。神を自分の都合の良いように利用しようとしてはなりません。「もし、神が私たちを助けなくても、私は神を信頼する。」というのが、真実の信仰姿勢です。

シャデラク、メシャク、アベデネゴは、灼熱の炉の中に投げこまれましたが、炉の中で神の使いに縄を解かれ、何の害も受けませんでした。「いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」(26)とネブカデネザルが言うと、その三人は出てきました。「神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。」(28)と王は、その信仰と信念を讃えます。

あるクリスチャン青年が日本に来て、酒を飲むことを覚えてやめられなくなりました。彼は、酔いどれて炬燵に寝てしまい、部屋は火事で焼け崩れましたが、彼は顔の上に置いた聖書で焼け死ぬことを免れました。悔い改めて献身を近い、国際的な宣教団体に入って、当教会で奉仕をしましたが、酒を止めることができずに隠れて飲んでおりました。生活が崩壊したので帰国させましたが、そのアパートは全く掃除をせず、家賃も滞納しておりました。帰国後の彼は惨めな生活で、私への借金は全く返されていません。彼には毎月援助していましたが何もしませんでした。せっかく、超自然的に命を救われても、彼はその恵みを神への奉仕に変えなかったのです。救いや神の祝福に溺れて甘えると、生活を崩壊させます。

神が自分の都合の良いように助けてくださると考える人は、信仰者として強く生きることはできません。信仰というものは、教えられた教理や生活の仕方を行うことではなく、神の御心を探り、神が自分に期待された生き方を、たとえ苦しくても、犠牲が大きくても、時間が掛かろうとも、行っていくものです。

現代生活で、信仰者にとって大きな課題は節制です。ユーチューブ礼拝は便利なものですが、家事や仕事をしながら参加するのは、神を冒涜するものです。便利な自己都合は、信仰を堕落させます。働かなければ食べていけないという人は、そういう仕事を選ぶことを優先した自己都合を反省していません。また、経済優先の生活を再検討していません。

シソの実を調理して配りました。毎日素材から調理していれば、食費は節約でき健康も確保できます。塾に行かなければ成績が良くならないという考え方は、ダメな子を育て上げます。サプリや薬によって健康になるのではなく、健康的な生活をすることによってなるのです。都合の良い生活は、人間をダメにします。

ダニエル3章17~27節

  • 3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
  • 3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
  • 3:19 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。
  • 3:20 また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。
  • 3:21 そこで、この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。  3:22 王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。
  • 3:23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
  • 3:24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」
  • 3:25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
  • 3:26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
  • 3:27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。