「自らの行いでは神の裁きに立てない。」ダニエル9章11~18節

ダニエルは多くの預言をしてきましたが、エレミヤによって祖国のエルサレムの復興預言を確認します。そこではエレミヤは「私は絶えず、しきりに語り掛けたのに、あなたがたは聞かなかった。」(エレミヤ25・3)と嘆き、エルサレムの荒廃とバビロンによる70年の支配を預言した(25・11)のです。

ダニエルは自らの同胞の罪と頑なさを神の前に悔い改めます。

「私たちは罪ある者で不義をなし、悪を行って逆らい、あなたの命令と定めから外れました。」(ダニエル9・5)。「預言者たちが御名によって・・・語ったことばに聞き従いませんでした。」(6)。「義はあなたにありますが、恥はわたしたちにあります。・・・あなたの信頼を裏切ったためです。」(7)。「私たちは神に逆らいました。」(9)。「律法に書かれている呪いの誓いが、私たちの上に降りかかりました。私たちが神の前に罪ある者であったからです。」(11)。「私たちは、不義から立ち返って、あなたの真理によって聡くなれるように、自分たちの神、主に願うこともありませんでした。」(13)。「私たちは罪を犯して、悪を行いました。」(15)。

罪人は罪を認めず告白せず、裁判でも自分の正当性と無実を主張します。これは、裁判官や検事が真実、事実を知るはずがないと見くびっているからです。公文書改ざんで自殺者が出た「森友学園」問題も、阿部元首相はしらを切っています。政治家で最後の審判の時に裁きを免れる人がいるのかと思うほど白々しいのには驚きますが、一般の人々も同じようなものです。

ダニエルの請願は、「断食をし、粗布をまとって灰をかぶり」(3)、「私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。」(18.19)と悔い改めるだけの切実なものです。

そのように自らと祖国の罪を悔い改めて伏して祈るダニエルの前に伝達天使ガブリエルが現れます。それは「あなたが願いの祈りを始めた時、一つのみことばが出されたので、私はそれを伝えに来た。あなたが特別に愛されている者だからだ。」(9・23)。ダニエルは謙遜であり、神に従順であり、悔い改めや執り成しに生きる真摯な信仰者なので、神に特別に愛され、祈りを始めるや否や、神は直ぐに反応して答えをくださるのです。私たちは、迫害や試練にもしっかりとした信仰で対応し、なおかつ謙遜で執り成しを続けるダニエルの歩みと人格に多くの学ぶところがあります。

25節の「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出て」はクロス王のものではなく、エズラ記7・13にあるアルタシャスタ(アルタクセルクセス)王の紀元前457年のものです。民数記14・34にあるように、「一日を一年と数えて」「七週」49年はエルサレム再興に要した年であり、その後の62週434年後は紀元26年であり、イエス様の公生涯の始まった年です。

第70週は7年ですが、イエス様の公生涯は3年半で終わり、「油注がれた者は断たれ」(ダニエル9・26)という通りに十字架で死なれます。この方は、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油を注ぐためである。」(9・24)という救いの業を行われたのです。

31日にお話ししたようにローマ帝国は未だ滅びておりません。この時代に、最後の週、7年が分かれて隠れ、残りの3年半が終末に残されており、反キリストが働く大患難時代と言われています。「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」(マタイ24・15)とイエス様が警告されていることが起こるのです。その預言とは、「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・27)というものです。

この3年半は「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」(ダニエル712・7)と終末の大患難においてクリスチャンが打ち砕かれた後のことと預言されます。黙示録にも、「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。」(黙13・5)として、最後にサタンが荒れ狂う時として警告されています。

「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24・21)。「いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。」(同25)。「その時、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」(同30)。「見よ、その方は雲とともに来られる。」(黙示録1・7)。神は自己義の人や不遜な者を許さない恐ろしさがあることをわきまえましょう。

ダニエル9章11~18節

  • 9:11イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。
  • 9:12 神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。
  • 9:13 このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。
  • 9:14 【主】はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、【主】のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。
  • 9:15 しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行いました。
  • 9:16 主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。
  • 9:17 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。
  • 9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。