「終わりの日の出来事。」使徒2章17~28節

1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されて約12万人が死亡し、その後も被曝で多くの方が障害を持ちました。8月9日には、広島の1.5倍の威力を持つ原爆が投下されて7万4千人が死亡しました。広島平和記念式典での菅首相の重要な部分の読み飛ばしは、国の指導者が国民の悲劇や被害を軽く見ていることを示しています。コロナワクチンが効かないことも、危険なことも報道されるようになってきました。しかし、政府は真実を知らせようとはしていません。オリンピックの活躍の裏で、政治家たちの愛国心のなさが浮き彫りになっています。

2つの原爆は、「わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。」(19)の警告の実現かと思われました。しかし、よく読むと、神が「天に不思議なわざを示し、地にしるしを示す」のですから、人の愚かさと残虐性による原爆とは違うものかもしれません。

「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(17)は、当教団発行の「教会員必携」161頁からにもあるように、1901年1月1日にカンサス州トペカのべテル聖書学校で起こった聖霊のバプテスマから始まる聖霊体験の世界中への伝播、信仰覚醒であると信じています。しかし、初代教会と同様な聖霊による「しるしと不思議」(使徒5・12)の業は、アメリカを中心に世界に爆発的に広まったのは事実ですが、21世紀に入って、それも収まりつつあるようです。

聖書の記述は、繋がっている文章の間に、長い神の時があります。聖霊のバプテスマが再び信仰者の現実となってから120年経ちました。20節の「太陽はやみとなり、月は血に変わる。」は、黙示録6章の「太陽は毛織の粗布のように暗くなり、月の全面が血のようになった。」と結びついているようですが、その前に「大きな地震が起こった。」(黙6・12)とあるので、早くても大地震の後です。その後に、「天の星が地上に落ちた。」(13)、つまり隕石が降り注ぎます。

弟子たちは、イエス様に尋ねます。「世の終わる時のしるしは、どのようなものですか。」(マタイ24・3)。「贋キリスト」(5)、「戦争や戦争の噂」(6)、「民族紛争や国家間の敵対」、「飢饉や地震」(7)、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」(12)。つまり、「しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12・12)と言われる終わりの時代の大騒動があって、それでも、「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(マタイ24・13)となるのです。

苦難の日々と、私たちの信仰が試されるような試練や艱難は数多く起こり、「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり月は光を放たなくなり、星は天から落ち」(24・29)となるのです。つまり、太陽と月の現象が再臨の前兆であり、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」(30)。

聖書は、はっきりと主イエスキリストが私たち信者を天国に迎え入れる為に、「このイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)と教え、「人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光と共に来るのを見るのです。・・・御使いたちは、・・・人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24・30.31.)。「人の子はノアの日と同じように実現するのです。」(37)。そして、選ばれた人だけが天に携え挙げられるのです。「用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」(44)

これらのことをキリスト教用語で携挙(けいきょ)と呼びます。私たちの教団を含め多くの福音派の教会は、大患難前に軽挙があると信じております。むろん、軽挙を信じない教団も教会も牧師もあります。しかし、聖書を信じるということは、イエス様が何度も力説しておられるように、携挙を信じるということなのです。

携挙の信仰は、私たち信者に自らの信仰が自己満足のものかどうかを吟味させ、この世界が罪に囚われて退廃していく中で、自らを聖く保つ動機づけに繋がります。患難時代はひどくなり、その中では、携挙されないで残った信者は、信仰を保つためには殉教しかない時代となります。

日本人の信仰者が、教理を求め、信仰の理解を知的に進めようとする傾向があるのは、この携挙を信じていないからであると思われます。信仰の知的理解は、神に自らの信仰と行いを献げず、自らだけの教義理解としての宗教姿勢です。聖書は、このような教義理解ではなく、神の前の聖めや悔い改めを求めます。

「目を覚ましていなさい。」(マタイ24・42)、「用心していなさい。」(44)、とは、自己満足、自己義の信仰者を打ちのめします。

使徒2章17~28節

  • 2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
  • 2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
  • 2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
  • 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
  • 2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
  • 2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
  • 2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
  • 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
  • 2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
  • 2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
  • 2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
  • 2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』