「決して悟らない人々」使徒28章23~31節
「正常性バイアス」という言葉があります。自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のことです。自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となるのです。「バイアス」とは、偏り、偏見という意味です。
更に、意思決定バイアスの一環として思い込みによって正しく判断できないことを是正して判断するために、『ファクトフルネス』(事実を基に判断する)ことが重要視されています。その本の著者たちは、10の思い込みによって正しく判断ができないと指摘します。
① 世界は分断されている(分断本能)
② 世界はどんどん悪くなっている(ネガティブ本能)
③ 世界の人口はひたすら増え続ける(直線本能)
④ 危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう(恐怖本能)
⑤ 目の前の数字がいちばん重要だ(過大視本能)
⑥ ひとつの例がすべてに当てはまる(パターン化本能)
⑦ すべてはあらかじめ決まっている(宿命本能)
⑧ 世界は一つの切り口で理解できる(単純化本能)
⑨ 誰かを責めれば物事は解決する(犯人捜し本能)
⑩ いますぐ手を打たないと大変なことになる(焦り本能)
信仰というものを、このような偏見である考えている信仰者自身が多くいることを悟らないといけません。祈祷会では、自らの十字架の死を何度も弟子たちに告げているイエス様の話をまともに受け留めたのがマリヤだけであったことを語りました。聖書の預言というものは、何度も語られ、多方面からその確実性が保障されているものなのです。ところが、信仰を「イワシの頭も信心次第」のような非理性的に信じ、行動することと捉えていると、正しい信仰を持てないことになるのです。
「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。」(26)と断罪するのは、神を否定する人々ですが、私たち信者もまた、「事実を聞き見て、悟り、わかる」ということが必要なのです。マタイ13・14からも同じ言葉が引用されていますが、イエス様は、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13・9)と警告されているのです。
判断を誤ると命取りです。コロナウイルスを警戒して、礼拝を中止し、ネット礼拝などの準備や知識を持っていなかった教会は、現在存続を危ぶまれています。「コンピューターやITは苦手だ。」と避けていた教会や牧師は、何らかの手立てを打つべきだったのに、ただ困っていて、神頼みの祈りをしていたら、必死に働いてきた教会が崩壊してしまうのです。助けやアドバイスをしていたのに、もはや助けを求めるだけの力も残っていなかったのかもしれません。執り成しの祈りをしながら、涙がにじんできます。実際には、それだけでは済まないでしょう。スマホやPCを使えない人々は、満足のいく暮らしもできなくなるでしょう。神頼みは、聖書信仰ではありません。
「御国のことばを聞いても悟らないと」(マタイ13章・19)とは、怖い言葉です。「持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう。」(13・12)と書いてあるとおりなのです。キリストが「神の在り方を捨てられないとは考えず」(ピリピ2・6)に仕える者となったのに、「私は、~が苦手だ。わからない。」などと言っていては、取り上げられるばかりなのです。神の前には言い訳は通らず、「悪い怠け者のしもべだ。」(マタイ25・26)として罰せられてしまうのです。「自分は、大してやることもない平凡な人間だ。」と安んじている人こそが、「持たない者」であり、「悪い怠け者」なのです。終末というのは、そのような人々が悲惨な目に遭うと、警告されている時なのです。
毎日、情報を収集し、本を読み、判断を模索し、祈っています。日々の雑役をこなす能力も増え、10年前の2倍近くの仕事をしているでしょう。指導者としての責任を果たす為には、言い逃れはできません。形式的な仕事や働きをする人が多く、何の成果が無くても、忙しがるのです。「この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。」(27)とある通りです。
「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。」(へブル4・2-3)。
使徒28章23~31節
- 28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
- 28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
- 28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
- 28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
- 28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
- 28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」
- 28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
- 28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
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