「苦しみにあって幸せでした。」 詩篇119篇65~75節

神を信じて敬虔に生きることが理想的であり、それを求める人は多いとおみます。ところが、人は本来、罪人であり、自己中心であって、「彼らの心は脂肪のように鈍感です。」(70)。そして、敬虔に生きるよりも、高慢に生きて、人や組織だけでなく神をも利用しようとする傲慢さを持っています。

従って、たとえ、一たび罪を悔い改め救われて洗礼を受け、信仰者になっても、敬虔さが身に付くほど、人間の罪深さは安易なものではありません。「イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は彼らを~の手に渡された。」(士師記1・4、6・1、13・1)、「すると、イスラエルの子らは、主に叫び求めた。」(3・9、4・3、6・6、)という繰り返しのようです。

「あなたの仰せから迷い出る高ぶる者」(21)、「高ぶる者はひどく私を嘲ります。」(51)、「高ぶる者は私を偽りで塗り固めました」(69)、「高ぶる者が恥を見ますように。彼らは私を偽りで曲げたからです。」(78)、「高ぶる者は私に対して穴を掘りました。彼らはあなたの御教えに従わないのです。」(85)、「高ぶる者がわたしを虐げないようにしてください。」と119篇には、6か所も「高ぶる者」の指摘があります。

「高ぶる者」は試練があっても、苦しみがあっても、反省したり、悔い改めたりしないのです。敬虔な者は、「苦しみにあう前には私は迷い出ていました。」(67)ことがあっても「しかし今はあなたのみことばを守ります。」となります。しかし、「高ぶる者」は21節のように、迷い出たままなのです。つまり、悔い改めができないから「高ぶる者」ままなのです。

78節にあるように、敬虔な者は高ぶる者に苛立ちます。なぜなら、高ぶる者は、敬虔な者を「嘲り」、「偽りで曲げ」、「虐げ」るからです。私自身、神学校に行くと決めた時、結婚した時、千葉で開拓伝道を始めた時、この会堂を購入した時、信仰的な歩みを始めた時、多くの攻撃を受けました。信仰で歩むということは、不信仰者には愚かで嘲りに足るものなのです。

信仰者は、苦しみに遭った時、神に祈ります。不信仰者は、苦しみにあったら、腹を立て、人や物事を攻撃して、前進しません。気を付けていなければならないことは、日々の祈りや御言葉の習慣がない人は、簡単に罪に惑わされて高慢になっていくのです。私は、神学校に出たのに、「もう聖書の言葉はじぶんの内にあるので、読む必要はない。」となってしまった人を知っています。もはやクリスチャンでさえありません。

苦しみや試練、思い通りにならないことがあった時、神に祈り、聖書に解決を求める人だけが、「主よ。あなたはみことばのとおりにあなたのしもべに良くしてくださいました。良い判断と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じています。」(65)と言えるのです。

苦しみは、信仰の分岐点なのです。「それにより私はあなたの掟を学びました。」(71)。自分が神の掟に背いていることに気が付き、悔い改める人だけが幸いを得るのです。だからこそ、「あなたの御口のみおしえは私にとって幾千もの金銀にまさります。」(72)と言えるのです。

信仰の分岐点となる「躓きの石、妨げの岩」(ローマ9・33)は、第一に富であり、経済です。働かなければ食べていけない、暮らしていけない、として、信仰生活よりも仕事を重視するのです。その価値観を持った人には、苦しみが信仰の成長に繋がることはありません。

神の掟を、どこまで重要と捉えるかどうかで、その人の人生、生き方は変わります。聖書を日々の糧とせず、祈りの習慣のない人は、自分の判断で、日々の行動を簡単に変えます。

掟には、優先順位が大事です。信仰者としての生き方を優先順位の上に置き、もし、社会的な慣例や家族への配慮、そしてやむを得ない場合には、それを優先順位に変えてよいかどうか、良く祈ることが大事です。このことをしない人が、当然として信仰生活を後にする人が、「脂肪のように鈍感」な人なのです。そういう人に、試練や苦しみが成長させることはありません。

苦しみにあって、神の掟を学び、悔い改め、そして魂の幸いを得た人だけが、十字架の道を歩むことができるのです。そのようにしてこそ、イエスについて行く生き方であり、「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16・25)。

私たち夫婦もまた、老後のことが心配です。でも、必要以上の富は自分も家族も危うくすることに気が付き、全て献げることにしました。この世の基準で生きることが、「苦しみに会う。」ことであることを悟っているからです。

生涯、神に仕えて生きることを覚悟し、献げて生きることにしたからこそ、会堂建設の思いが与えられたのです。その祝福は、後任の牧師や、これからの教会員が味わうことでしょう。それで良いのです。

詩篇119篇65~75節

  • 119:65 【主】よあなたはみことばのとおりにあなたのしもべに良くしてくださいました。
  • 119:66 良い判断と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じています。
  • 119:67 苦しみにあう前には私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります。
  • 119:68 あなたはいつくしみ深く良くしてくださるお方です。どうかあなたのおきてを私に教えてください。
  • 119:69 高ぶる者は私を偽りで塗り固めましたが私は心を尽くしてあなたの戒めを守ります。
  • 119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし私はあなたのみおしえを喜んでいます。
  • 119:71 苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
  • 119:72 あなたの御口のみおしえは私にとって幾千もの金銀にまさります。
  • 119:73 あなたの御手が私を造り私を整えてくださいました。どうか私に悟らせ私があなたの仰せを学ぶようにしてください。
  • 119:74 あなたを恐れる人々は私を見て喜ぶでしょう。私がみことばを待ち望んでいるからです。
  • 119:75 【主】よ私は知っています。あなたのさばきが正しいこととあなたが真実をもって私を苦しめられたことを。
  • 119:76 どうかこのしもべへの約束にしたがってあなたの恵みが私の慰めとなりますように。
  • 119:77 どうかあわれみを私に臨ませ私を生かしてください。あなたのみおしえは私の喜びです。
  • 119:78 どうか高ぶる者が恥を見ますように。彼らは偽りで私を曲げたからです。しかし私はあなたの戒めに思いを潜めます。