「子どもは神からの預かりもの。」詩篇127篇1~5節

欧米では戸籍制度はなく、個人単位で国家に登録されます。性(苗字、氏)は血縁集団を現わし、明治8年(1875)に氏の使用が義務化されるまでは、庶民は名だけでした。1876年には「夫婦別氏」が原則で、1898年に「夫婦同姓」が制定されました。「家」を守るという意識は、政府の統制を目的としたものが定着したもののようです。墓を守るという願いもあって、家制度が現代日本でも強いようですが、相続税の厳しい日本では墓を守っても財産は護れなくなっています。空家も多くなっています。

日本では、子供は親の所有物という感覚が強く、絶対服従が当然であり、女子の立場は更に悪く、勉学の機会も与えられませんでした。義務教育は、国力を上げる為の重要な方策でしたが、今でも果たされていない国々は多くあります。社会的な約束事に対する責任を負うことができることを大人とされて、子供が犯罪を犯しても責任を負わさないとされました。日本では少年法の適用は何度も変わり、十一歳から十七歳となり、十八,十九歳は「特定少年」とされます。

1833年のイギリス工場法でも、就労年齢は9歳以上、一日12時間以下というので子供たちは過酷な労働を強いられていました。兵役でも犠牲になるのは子供でした。子供は思考や判断力が成熟しておらず、感受性が強いので、洗脳されやすく、命令に忠実にも残忍にもなります。子供達こそ、人間の罪の犠牲者だったのです。

聖書では、子どもは「神からの賜物」(3)とされます。しかし、それは神から与えられたものではなく、「預かったもの」です。つまり、神から養育を任せられて預けられた神の所有のものなのです。むろん、私たち自身も、私たちの富も、能力も、時間も、神から預かっているもの、という理解は大事なことです。

人間は、神から「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記1・28)という命令を果たすべく「祝福された。」(1・28)のです。

これらを果たす為には、自らの子どもを増やし、支配者として成長させなければならないのです。そのような子育てをすることによって「祝福され」るのです。

「家を建てる」「町を守る」(1)こと、そして「早く起き遅く休」むほど勤勉に働いても、神への信仰と結びついていなければ、「虚しい」のです。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(2、新改訳)とあるように、「早く起き遅く休」むほど無理して働かなくても、「主が愛する者には、眠っている間に主が備えてくださる。」というのです。それは、子どもたちを「神から預かったもの」として、前述のような親の益のために酷使することをしないで、養い育てることから与えられる祝福なのです。

幼子の時の笑顔が一生分の親孝行と言われる程、子育ては大変難しく辛いものです。無責任に育てる者には、そのような苦労は感じないかもしれません。しかし、人間は生まれながらに罪人であり、祈りながら信仰を持って育てなければ、容易に罪に堕していくのです。愛情が通じるほど、人間の罪性は安易なものではありません。祈り、配慮し、努力し、それでも、反抗期を経て自分勝手な人間になっていくものなのです。それに腹を立て、不満を抱いていては、信仰者とは言えません。「主を愛し、委ねて、平安を持って眠っているのです。」

「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16・24)は、子育てそのものに当てはまります。自分を捨て、苦労を喜んで負っていかなければ、子どもを神にある成熟した信仰者には育てられないものです。子どもがいない人は、同様な十字架を負い生きる覚悟をしたら良いでしょう。楽をしよう、手を抜こう、子どもを自由に育てよう、神に委ねて生きていこう、などの考えは、都合の良い自分勝手なものです。

勉強しろ、努力しろ、きちんとしろ、親の言うことを聞け、などと子どもに要求する親は、老後に同じことを子どもに言われるようになるでしょう。罪というものは、自分にとって都合の良いことを求めるものであり、罪の結果は何倍にもなって返って来るものなのです。

「主に愛される者」になりましょう。そして、「子どもを愛する者」になりましょう。感受性の強い子どもは、親が安易にとった愛のない言葉や態度を覚えているものです。決して、子どもを馬鹿にしたり、苦しめたりしてはいけません。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18・10)

詩篇127篇1~5節

  • 127:1 【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
  • 127:2 あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。
  • 127:3 見よ子どもたちは【主】の賜物胎の実は報酬。
  • 127:4 若いときの子どもたちは実に勇士の手にある矢のようだ。
  • 127:5 幸いなことよ矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき恥を見ることがない。