「神の霊を注がれた。」使徒2章14~24節

fMRIで脳の働きを確認すると、内側前頭前皮質は、自分のことを考える時に活性化し、他人のことについては非活性化、赤の他人については殆ど働かないそうです。ところが、自らの将来について考えると不活性化するのです。つまり、脳は未来の自分を他人として扱い、詳細に考えることはないというのです。

復活祭と五旬節の間は50日なので、40日間イエス様が「神の国のことを語られた。」(使徒1・3)の後、弟子たちは10日間「泊っている屋上の部屋」(使徒1・13)で、「120名ほどの人々が」(15)「いつも心を一つにして祈っていた。」(14)のです。

多人数が、これだけ長期間祈り続けたということは尋常ではありません。私は、いつも将来のことを考え、予測し計画していますが、その代り過去のことを覚えている余地がありません。冒頭に述べたように殆どの人は、将来について考えていないので、うまくいくことがありません。「明日のための心配は無用です。」(マタイ6・34)とありますが、「時のしるしを見分けることができない」(マタイ16・3)のは、霊的な目を持たないからであるとパリサイ人達を批判しています。日々の労苦に目を留めていると、その時に必要なことを悟ることができないものです。しかし、彼らは祈り続けました。

私は断食聖会や徹夜祈祷会にも多く参加しましたが、本当の断食をしている人は僅かで、徹夜で祈り続ける人も殆どいないで眠ってしまって、ただ参加しているだけなのを体験しています。私自身が21日間断食をしましたが、子供の送り迎えや家事や雑務をし、祈り御言葉を聞いた時間は僅かでした。それでも10日を過ぎると食欲がなくなり身体が軽くなって、祈りや御言葉に専念できるようになりました。それでも家事はしておりました。考えることも聖くなって、「このまま過ごせれば天国に行けるな。」などとも考えました。つまり、生存本能が失せてしまって死ぬと思ったわけです。墓場や山上で祈るのも2時間がせいぜいで、とてもそれ以上は祈れませんでした。私は根性はあると思っていますが、人間力では長期間祈り続けるものではないと悟っています。

聖霊が働かれるには、人間の側にも応じるものがなければなりません。私が、将来について調べ、模索し、計画を練るのは、牧師として指導者としての責任があるからです。そして、その計画のために、自ら果たさなければならない犠牲を覚悟し、努力を進んでします。祈り求めることは、甘い気持ちではできません。その上で、神に激しく求めるのです。求めなければ聖霊は働いては下さいません。

聖霊体験は、異言だけではありません。私は多くの体験をしてきましたが、やはり一つ一つに命がけの求めをしました。2回目の会堂を求めて夜中に祈っていた時に、「求めるならば、真剣に求めなさい。」という聖霊の語り掛けを聞いて直ちに10日間の断食の祈りをしたものです。

そして、五旬節(ペンテコステ)の日に、「突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」(2・1.2.)。「この物音がしたため、大勢の人が集まって来た。」(2・6)。「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。」(14)。

狭い部屋に籠って祈り、助けと力を求めていた大勢の信徒が、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1・8)が実現したのです。信徒たちは「声を張り上げ」、終末預言と福音を語ったのです。聖霊が注がれる時、「青年は幻を見、老人は夢を見る。」(17)です。

先週のスマホ講座には感激しました。扱いが全く未熟でわからない高齢の方々が真剣一心に学んで、喜び、時間をかなり超過していました。今回のコロナワクチン予約では、スマホやPCのできない人々が苦労しています。数年経つと、スマホ無しの人に助けはなくなるでしょう。

私たちは、終わりの時代に生きています。世界中で、コロナ禍の為に会堂で礼拝をおこなうことができなくなっています。会うことも許されません。買い物に出かけることもできません。コロナ対策の莫大な経費で企業も官公庁も人件費を節約するようになり、助けを求めても誰も助けてくれない時代がきます。冒頭のように、私たちは将来のことについて、終末について、強く意識しないと何も対処しないで過ごしてしまうのです。

「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。』」(Ⅱペテロ3・3.4)。私たちは、終末の備えをしないで、不遜な生き方をしている人々の中に暮らしているのです。心を尽くし、脳を働かせて、終末の備えをしなければなりません。心が動き、霊が飢え乾かなければ、聖霊を待ち望むことはできないからです。祈っているといっても、形だけのものであってはいけないのです。

使徒2章14~24節

  • 2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
  • 2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
  • 2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
  • 2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
  • 2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
  • 2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
  • 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
  • 2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
  • 2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわ
  • ざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
  • 2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
  • 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。