「40年経った時」 使徒の働き7章30~35節

当教会が教団に認証されてから40年が経ちました。40年として、モーセが神に取り扱われた年月を想いました。

 モーセは王の孫として、「あらゆる学問を教え込まれ」(使徒7・22)、裕福に育てられました。神の御手により、実の親に育てられたのですが、王の孫としての裕福さ、快適さを当然のこととして何不自由なく生きてきたのです。「言葉にも行いにも力がありました。」(22)から、自信もあり、高慢でもあったことでしょう。

 むろん、自分がイスラエル人であることは、密かに両親から打ち明けられていたでしょうが、裕福な地位と生活から落ちることは、彼にはあり得ないと思ったことでしょう。若い時には、自分に都合の良い考え方をするものです。しかし、「モーセが40歳になった時、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。」(23)。

 「子(し)曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」と孔子は言いました。私が学に志したのは、12歳ですから、早熟でした。「立つ」とは、独立した立場を得る、ということですが、牧師になったのは確かに30歳でした。40歳では、惑い続けました。

 日本教会成長研修所に福音派から12名の中に選ばれ、著名な学者の指導を受けたものの、自分は教会成長志向に向いていないと悟ったものです。櫻井先生が所長をしていた共立キリスト教研究所に学んで、学問の道にも向いていないと気が付きました。ビリー・グラハム東京国際大会の財務委員会書記としても、JEA日本伝道会議の委員として発表しても、超教派活動は向いていないと悟りました。教団の委員や監事を年して、妥協や協調はダメで不器用な人間と自分を恥じました。ダメな牧師だと悔い改めて祈り、50歳で会堂を得ました。ただ、神に仕え、自分の思い通りになることを望まない覚悟もしたという意味では、「天命を知る」になったのでしょうか。60歳位からやっと妻の言葉に「耳従う」ことができ始めました。70歳を過ぎても、「矩を超えず」は何のことか実感できません。会堂建設を志して、自分には経営の才があることと神に祝福されていることはわかりました。そして、会堂建設後の人生設計を模索したのです。全てを神に献げることだけは確信しました。

モーセは、40歳になってやっと同胞に目がいき始めたのです。ところが、その同胞は決してモーセの味方にはならなかったです。モーセは絶望して逃げました。40歳から80歳は、人生で最も活動的な世代で成果も得られる時です。その40年間をモーセは荒野で羊や山羊と一緒に過ごしたのです。

私は体力と体調が落ちた10年前に引退を考えましたが、それができなくなった時に長柄ハウスを与えられました。庭を造り、草木を管理する日々で心が癒され、また身体も強くなりました。さらに、人に依存したり、期待する高慢な思いも削られてきました。ニワトリの世話も大変で、長い旅行は諦めました。海外旅行も、したくなくなりました。

今は、先日公表したプロジェクトの実現に専念したく思います。私は、信者に叱咤激励をして献金を募るのが好きではありません。奉仕を無理強いすることなど、牧師の恥だと思っています。献身者として、自らはどこまでも献げながら、人には献身を期待しないのが心得と考えております。しかし、これは奥義です。

「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」(テトス2・14)

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ロマ12・1)

「私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。それで私たちは、テトスがこの恵みのわざをあなたがたの間で始めたからには、それを成し遂げるようにと、彼に勧めました。」(Ⅱコリ8・3-6)

「私たちの主イエス・キリストの名のために、いのちを献げている、バルナバとパウロ」(使徒15・26)。

モーセは、80歳になって献身しました。人生の在り様と人の愚かさを悟り、神に身を委ねたのです。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16・24.25)

使徒の働き7章30~35節 

  • 7:30 四十年たったとき、シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました。
  • 7:31 その光景を見たモーセは驚き、それをよく見ようとして近寄ったところ、主の御声が聞こえました。
  • 7:32 『わたしは、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』モーセは震え上がり、あえて見ようとはしませんでした。
  • 7:33 すると、主は彼にこう言われました。『あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。
  • 7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見た。また彼らのうめきを聞いた。だから、彼らを救い出すために下って来たのだ。今、行け。わたしは、あなたをエジプトに遣わす。』
  • 7:35 『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。

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MYoshi
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