「死の後先。」 使徒9章36~42節
聖書には死んでよみがえった記事が幾つかあります。預言者エリヤは、一握りの小麦粉を残った少しの油で焼いて、それを食べて死のうとしている女性が、その為の薪を拾っているところに行き、それを焼いて自分に食べさせろと無理を言います。そして、「恐れてはいけません。」(Ⅰ列王17・13)と語り、預言者に献げることを要求します。
自己中心な人に神は働きかけることも助けることもしません。神の業を感謝しないばかりか、自分の為に用いてしまうからです。預言者に献げた小麦粉も油もなくならず、母も息子も生き長らえます。ところが、その息子が病気になり死んでしまいました。母親は、エリヤに文句を言います。エリヤは、「私の神、主よ。」(20)と祈り、その息子をよみがえらせます。彼女は「あなたが神の人であり、主のことばが真実であることを知りました。」(24)と告白します。これは、アハブ王への神の警告「数年の間、露もおりず、雨も降らない。」(1)の干ばつの時でした。
預言者エリヤを敬い、接待していたシュネムの女性は、エリシャの祝福によって男の子を産みました。しかし、その男の子が突然死んだので、彼女はその子が死んだと誰にも言わずに、エリシャの足にすがり付きます。彼女はエリシャにだけ奇跡を激しく求めたのでした。「彼女は入って来て彼の足元にひれ伏し、子供を抱き上げて出て行った。」(Ⅱ列王4・37)。母親の子供に対する愛情は凄いものですが、その一途な信仰姿勢も素晴らしいですね。
「人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」(ローマ5・12)とあり、「罪が死によって支配した」(同21)のです。つまり、死を恐れて暮らしているのです。先の二つのよみがえりの事件は、「恐れてはいけません。」の具体的な例ですが、多くの人は死について恐れ、或は無関心を装って生きているのです。実は、クリスチャンでも、死の問題に直面せず恐れを持って生きている人は多くおります。信仰が、単なる魂の安寧を求めた程度のものなので、真実な救いに至っていないのです。
過去の洗礼を受けた後、教会を離れた人とその後を知ると悲惨なものがわかります。救いに導かれていた人が、その救いを軽んじて目先の誘惑に引かれて信仰生活から離れると碌なことはありません。「その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」(マタイ12・45)。
信仰は、「わたしたちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」(ローマ5・21)。「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」(同6・2)。
聖霊なる神は、私たちに内在して聖と義に導きます。しかし、この聖霊の感化に鈍感な人が多いようです。平気で嘘をつきます。正しいことをしない言い訳をします。祈祷会で話したように「怠惰な歩み」(Ⅱテサロニケ3・6)をして堕落していきます。そして、聖霊の内在がなくなっていきます。罪を自覚できなくなり、正しいことができなくなっていきます。その人の不誠実は、周囲にもわかるのですが、本人は自覚できなくなっているのです。そういう堕落した信者がいるのです。聖霊は悪霊のように私たちを支配しようとせず、私たちが罪に無自覚になっていくと内在できなくなって去っていくのです。死んでから後悔しても遅いのです。私が信仰に真剣なのは堕落した人々を知っているからです。
ドルカスさんは、「多くの良いわざと施しをしていた。」(36)。ペテロが呼び出されました。「すぐ来てください。」(38)。彼らはペテロに、ドルカスをよみがえらせることを期待したのでしょう。リダとヤッファは20㎞ほどありますから、決して近くはありません。ペテロが着くと、「やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(39)。その多くは未信者でしょう。しかし、じわじわと、ペテロにドルカスをよみがえらせろと迫ってくるようです。ドルカスは既に死んで2日は経っているでしょうに、死なせてたまるかという信者・未信者全てが嘆いているのです。普通は、油を塗って埋葬します。「屋上の部屋に安置した。」(37)のは、先の2例を真似たのだろうと思わせられます。
「彼女は病気になって死んだ。」(37)けれど、死ぬ間際になっても、よみがえりの主を人々に伝え、永遠のいのちを語っていたのでしょう。人々は、イエス様のよみがえりを真摯に伝える彼女こそも、同じようによみがえると信じたのだと思います。ペテロは、周囲の人々の信仰の状況と聖霊の導きによって、ドルカス(タビタ)がよみがえると信じ、「タビタ、起きなさい。」と命じました。
人が死んだ時の状況、その家族の状況、友人・知人の状況で、その人の生きざまがわかります。最近は、勝手に家族葬などとして、費用を節約し、面倒なことを避けるようになりました。不信仰、無宗教の繁栄です。虚しい人生を生きた人ならば、そのようになるでしょう。自分の葬儀を予想して、悔いのない人生を生き抜いてください。
使徒9章36~42節
- 9:36 またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。
- 9:37 ところが、そのころ彼女は病気になって死んだ。人々は遺体を洗って、屋上の部屋に安置した。
- 9:38 リダはヤッファに近かったので、ペテロがそこにいると聞いた弟子たちは、人を二人、彼のところに遣わして、「私たちのところまで、すぐ来てください」と頼んだ。
- 9:39 そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
- 9:40 ペテロは皆を外に出し、ひざまずいて祈った。そして、遺体の方を向いて、「タビタ、起きなさい」と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がった。
- 9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちを呼んで、生きている彼女を見せた。
- 9:42 このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
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