「荒野に証しの幕屋を造る。」 使徒の働き7章39~45節
神がモーセに「自分のために偶像を造ってはならない。」(出エジプト20・4)と十戒を命じ、血の契約をして、民は「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」(同24・7)と誓いました。石の石板を授かる為にモーセは「神の山に登った。」(13)。「モーセは四十日四十夜、山にいた。」(18)。
信仰がわからず、また身に付いていない民は、モーセが神の山に登っていない時に、金の子牛を造って、それを崇め、その周りで淫らに踊り、欲望を丸出しにしました(同32章)。なんと、その段取りをアロンがしてしまったのです。イスラエルの民は、直前まで奴隷であり、教育も教養もない未開の人々でした。アロンもまた、モーセと一緒にエジプトのパロ王と交渉したりしましたが、教育も積んでおらず、聖めの体験もしていない(同3章)、単なる兄でした。
Ⅰコリント10章に、「わたしたちの先祖は」(1)、「モーセにつくバプテスマを受け」、「霊的な食べ物を食べ」、「霊的な飲み物を飲みました。」(2-4)、「しかし、彼らの大部分は神の御心にかなわず、荒野で滅ぼされました。」(5)。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(11)。
この教会でも、過去に神学校で学んでいないのに伝道者、宣教師などと自称する多くの人々にかき回されてきました。きちんと聖書も神学も習わずに、「イエス様を信じる」というだけのクリスチャンが信仰の破船に遭って来ました。「教会に来ている。」、「献金をしている。」、「奉仕をしている。」などで、神の国に行けると考えるのは誤った考え方です。
クリスチャンは、信仰生活、教会生活の中で必ず試練に遭います。奉仕をせず、教会員と深く関わり合わなければ躓くこともないかもしれません。しかし、神は必ず、私たちを試みるのです。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。」(ヤコブ1・14)。「実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。」(Ⅰコリント11・19)。
さて、金の牛は、豊穣を祈るバアル礼拝と結びついており、現代では、金を神とするもので、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6・24)とイエス様が禁じたものです。
現代では多くの教会が、「献金したら祝福される。」と叫んであおり、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22・37)ではなく、「金を尽くして神を愛しなさい。」という恐るべき異端に堕してしまっています。そのような安易な信仰心をもったイスラエルの民を神は、「バビロンの彼方へ捕らえ移す。」(使徒7・43,アモス5・25)と罰するのです。
「荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。」(44)。幕屋の素材は、金、アカシヤ材、亜麻布のより糸、山羊の毛、雄羊の皮、ジュゴンの皮、青銅、宝石、その他が無数に丁寧に神の指示通りに用いられました(出エジプト25-28)。神ご自身の臨在される幕屋、それは犠牲の血にまみれたものでした。荒野で民は、その幕屋を運びながら、神に仕える生き方を身に付けていったのでした。
人間は、自分や家庭の事情を優先して働き、自ら生き長らえることを求めます。しかし、荒野では神だけに仕え、その為に生きたのでした。
イエスキリストとその十字架の贖いを知り、罪を悔い改めても、多くの人は、同様に自分や家庭の事情を優先して生きています。
イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16・24)と言われました。今回、兄や姉を訪問してきましたが、自分や家庭の事情を優先して働いてきたことがよくわかりました。そして、その中で罪と自己主張が行き交い、残念ながら、滅びの法則が働いているのを見てきました。それは誰もが通る道です。
歴史上、多くの民族と人々が栄枯盛衰の道を歩んできました。それは、やはり滅びの道でした。
「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者は僅かです。」(マタイ7・14)。「主よ、主よ」と言う者は多く、自分では熱心なクリスチャンと思っている人も多いでしょう。しかし、「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(同21)。
自分勝手な人々の中で、神がおられることを示す「証しの幕屋」を築き上げ、携えて生きるのです。十字架を負わなければできるものではありません。教会堂を築き上げても、それが十字架を負った人によって保たれなければ、砂上の楼閣になってしまうでしょう。それを覚悟して自らを献げることが十字架を負った人生です。
使徒の働き7章39~45節
- 7:39 ところが私たちの先祖たちは、彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、
- 7:40 アロンに言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き出した、あのモーセがどうなったのか、分からないから。』
- 7:41 彼らが子牛を造ったのはそのころで、彼らはこの偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造った物を楽しんでいました。
- 7:42 そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。
- 7:43 あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたを、バビロンのかなたへ捕らえ移す。』
- 7:44 私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。
- 7:45 私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。
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