「主の安息の場である教会。」 使徒7章46~53節
ダビデ王は、「見なさい。この私が杉板の家に住んでいるのに、主の契約の箱は天幕の下にある。」(Ⅰ歴代誌17・1)と申し訳なく思いました。しかし、神は、「あなたがわたしのために、住む家を建てるのではない。」(同4)と告げ、「わたしはあなたの息子の中から、あなたの後に世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」(11-13)。これはソロモンのことであり、とこしえとしてはイエス様となります。戦いに血塗られたダビデが神を讃える場所は、血の付いた幕屋であり、平和の内に王位に立ったソロモンが固定した神殿を建てるのです。
教会堂建築には、いろいろな形式がありますが、ゴシックとかルネサンスというよりも、現代のプロテスタント教会の造作にも興味があります。教会堂というと講壇に向かって会衆席がありますが、最近の会堂は講壇が舞台のようになっており、そこには讃美グループが広く場所をとれるようになっており、また、講壇が会衆席よりも低くなって、会衆が説教者や演奏者を見やすいようになっています。機能的に変わり、教会の集会の内容と強調点が代わっているからでしょう。会衆席も、固定席から可動席に変わり、コンサートや食事会ができるようになってきました。礼拝時間も、讃美は1時間以上のところもあり、説教は短くなり、モニターなどの視覚などにも訴えるものになってきております。つまり、神中心というより、会衆中心かつエンターテインメントになってきているのです。そこでは、機材・スタッフ・講師その他で多大な経費が掛かり、多額な献金が必要となってきます。
最近の牧師教育も、そのような機能的なものやエンターテインメントの必要を満たすものへと変えられつつあります。ゴスペルの流行も、その流れの中にありました。アメリカでも韓国でも、大教会はそのような傾向に流れ、興行団体のようになってしまいました。チャック・スミスのカルバリーチャペルは、そのような中にあって聖書のきちんとした講解説教を通じて教会を成長させてきました。ところが、教会を引き継いだ牧師がその姿勢を否定して、分裂してしまいました。教会は、常にサタンの攻撃を受けています。現在の多くの教会は、その罠にかかって大混乱です。
教会の在り様は、牧師の資質と献身に掛かっています。多くの罠があり、教会員も惑わされることがあるのですが、動じないで聖めと交わりを保ち、聖霊に導かれて聖書的に教会を形成することが必要です。説教は、信仰と奥義の宣言であり、学びではありません。いくら学んでも、霊性と品性の聖めには繋がりません。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。」(49)という神を、教会が主として受け入れ、聖霊に導かれる為に、人とその交流が中心であってはいけません。雑談やこの世の話題に交流が流されてはいけません。神の臨在を求め、感じる交流でなければなりません。神の民の「安息の場」(49)こそ、神の「安息の場」なのです。
だからこそ、「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。」(51)に教会を牛耳られてはなりません。洗礼を受けても、他の人を配慮せず、自分の主張と思いを強要する人々がおります。
7章はステパノの答弁です。彼は、最高法院で自分を攻撃し、殺そうとする人々の前で、この聖書に基づいた大演説をしたのです。信仰者は、たとえ、信仰も人格も未熟で自分の都合ばかりを要求している人がいても、自分の聖さと誠実さを貫き、聖霊に導かれ、聖書に基づいて生きるのです。
私自身、この信仰の奥義に気が付くまでに多くの時間が掛かりました。人を救い、導くのは神であり、つまずき、堕落していくのは人です。自分を義とし、平気で嘘や誤魔化しをする人を、いまさら悔い改めに導くことは、人にはできません。教会員全てを御霊に満ちた成熟したクリスチャンに導くことは無理なようです。
イエス様も、毒麦は放置しなさい、と言われました(マタイ13・30)。毒麦のように見えても、成長したら良い麦だったということもあります。世の終わりに、「すべてのつまずきと、不法を行う者達を…、火の燃える炉の中に投げ込みます。…正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」(同41-43)。
長柄では雑草が生い茂り、猪が根を掘り荒らします。それをこつこつと対応し、汗をかいて働くことに安息を覚えます。信仰者の人生も、悪人や自分勝手な人々に躓かないで、誠実にこつこつと生きることではないでしょうか。わたしにとっての「安息の場」は、この罪深い世の中です。教会堂を主に従い、主と共に生きる信仰者と共に建て上げ、そこに集えたら「安息の場」です。
使徒7章46~53節
- 7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。
- 7:47 そして、ソロモンが神のために家を建てました。
- 7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
- 7:49 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
- 7:50 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』
- 7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
- 7:52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
- 7:53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
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