「教会における個と全。」エペソ書4章16節 櫻井圀郎協力牧師

聖書直訳

「体の全体は、各人一人の部分の分量における力に従った助けの全ての紐帯を介して、接合されかつ結合されて、愛におけるそれ自身(体)の構築へと、体の増大を為す。」

来週開催の教会総会に備えて、今一度、「教会とは?」および「教会員とは?」について、御言葉から確認しておきたいと思います。

   Ⅰ 一人一人の働きが基礎

第一に、「各人一人の部分の分量における力に従った助け」=「一人一人の働きが基礎」ということです。「教会は基督の体」ですが、その「教会」とは、時空を超えた、全歴史の全地域の基督者の総体ということです。世界各地にある教団や教会は、その教会の支部(肢部)です。そして、教会員一人一人はその構成要素です。「各人一人の部分」です。「部分」とは、全体の構成要素であり、欠けては全体が成り立たないものを意味します。欠けても良いものは部分とはなりません。いくら教会に来ていても、本当に基督者でない者は含まれません。人間目線ではなく、基督目線です。現代社会では、民主主義という名のもとに、多数決による少数支配が行われています。少数者の切り捨てです。しかし、教会においては、なくても良さそうな部分が重要な部分です。

基督者一人一人が基督の体の欠かすことのできない細胞です。パウロの喩えは、目、口、耳、手、足などの器官ですが、現代的には「細胞」です。基督者は、聖書というDNAに基づいて、各自が判断し、各自が自主的に行動するのです。

「各人の分量」とは、一人一人の基督者に分け与えられたタラントです。あらゆる知識、経験、能力、才能、感覚などです。プラスの面だけではなく、人間的にはマイナスと思われることも。「各人の分量の力に従った助け」とは、「各人の能力に応じた働き」です。「助け」という表現が印象的です。全知全能なる神の教会なのに、一人一人の基督者の「助け」が教会の要素とされているのです。塵に過ぎない人間の助けを要素にしているのです。天国も、神の支配統治の世界ですが、塵の一つ一つの積み重ねで成り立っている世界なのではないでしょうか。

しかし、教会における「個」の存在は、誤解されると本末転倒に陥ります。個人主義、民主主義という美名の下、聖なる教会が人間の思惑、世俗の勢力によって牛耳られてしまう現象が起こります。 アッセンブリー教団の教規では、主管者が教務および事務を統括し、教会会議と役員会を主催し、教会役員は主管者を助けて奉仕するものとされ、牧師は教会会議と役員会に統御されません。 教会会議(教会総会)は、教会の事務に関する権限のみを議し、聖書の解釈や教理の問題、教師の任免など聖なる領域についての決定権はありません。 教会をはじめ宗教団体では、人間の関与できる世俗の領域と神の世界である聖域とがあり、国家も、法律も、この聖域には立ち入れません。この点を見失ってはなりません。

Ⅱ 賜物全体の接合と結合

第二のポイントは、「体の全体は、個々の助けの全ての紐帯を介して、接合されかつ結合される」=「賜物全体の接合と結合」です。基督の体の細胞である個々の基督者が個々の助けをするというのではなく、全ての基督者の賜物を一つ残さずに結びつける紐帯のより全体として結成されるのです。

コンピュータで言えば、一つ一つの部品が単独で作用するのではなく、全ての部品が電線で結ばれ、全体として設計されて、組み立てられ、全体として、個々の部品の作用を大きく超えて、大量の高度で複雑な演算を行うようになるのです。

個は、個として働くのではなく、極めて緻密に設計され、極めて複雑に結び合わされた回路によって、全体として成立し、全体としての働きをなし、全体として存在しうるのです。

基督の体なる教会の部分を構成する地上の個々の教会も基督の体の縮小型であるべきです。

悪例一。個々の教会が人間的な視座から構成されている場合。実際には多いタイプ。世俗の会社と同じ発想、領土拡張に奔走する国家と同じ。

悪例の第二は、好む細胞を用い、嫌う細胞を捨てるという使い分けです。細胞の方も、使い分けする人の顔色を窺って行動します。

これらは全体を欠いています。選り分けた細胞によって構成された教会まがいの団体は、基督の体を構成することはないでしょう。

これらの逆が真理です。基督の体なる教会は、基督者とされた人の全ての助けによって構成されるのです。

   Ⅲ 体の増大と愛にて構築

第三のポイントは「愛におけるそれ自身(体)の構築へと、体の増大を為す」=「体の増大と愛にて構築」です。

基督の体なる教会は、愛による構築であり、その結果としての、体の増大なのです。ともすれば、体の増大を願い、企図するあまり、愛による構築を失念してしまうこと、悪例の通りです。

「愛」とは、「基督の愛」であり、自己犠牲による無償の行為としての罪の贖いです。「贖罪による構築」です。贖罪は基督への信仰によりますから、「信仰による構築」です。教会を築き、固めているものは、ボンドやセメントではなく、基督への信仰の一致という、強い絆です。

エペソ書4章16節

  • 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
  • 4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
  • 4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
  • 4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
  • 4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
  • 4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
  • 4:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。