「主の教育と訓戒による子育て。」エペソ6章1~4節

箴言には、「わが子よ。」と語り掛けている箇所が22個あり、箴言全体として父の愛する子への訓戒であることがわかります。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」(1・8)など、父親が人生の苦難の末に、「子どもには自分と同じ失敗をさせまい。」という強い願いと語り掛けがありありと浮かびます。

乱暴、狼藉を好み、きちんとした努力を積み重ねない若者が目立つときがあります。若い時には、そのような人々に興味を持ち、誘惑に落ち込むことがあります。「わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。」(1・10)と教えていなければ、簡単に道を踏み外してしまします。「わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。」(1・15)。踏み外して戻ろうとすることは難しいのです。親は、そんな時の為にも忠告をしておきます。「あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい。あなたは隣人の手に陥ったのだから、行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。」(6・2.3)。親はなんとしても自分の子を救い出したいと思っているのです。いざとなったら命懸けで子どもを救うでしょう。

そのように、親は子どもを愛しているのですが、どうして真っ直ぐに訓戒を語れないのでしょうか。それは、自分に自信がなく、子どもに訓戒を与えるのに相応しくないと考えているからです。本来、男は、「従え、支配する」(創世記1・28)として造られたので、自分の弱さ罪深さよりも、支配責任を果たすことを重視する存在なのですが、罪を犯した故に「苦しんで食を得る」(創3・17)ことになり、その働きは「茨とあざみ」(3・18)の生える働きとなって自信を失うのです。女には、「苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。」(3・16)という呪いが生じます。

つまり、罪によって男は責任をもって家庭を治めて子どもたちに訓戒をすることができなくなり、女は、それを守ろうとする子どもたちを優しく励まし、うまくいかなくても愛するという役割を果たせなくなったのです。そのことが、この聖句の前のエペソ5章にあります。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(5・22)。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(5・25)。このようなことができない夫婦が子どもたちに訓戒を与えることは難しいのです。

むろん、どのような親であっても、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」(6・1)は神の奥義であり、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」(6・3)が全うされるのです。

それでは、親はどのような親であっても良いのでしょうか。実際には、親の責任を放棄している親は多く、子どもの側も親の無責任に応じて好き勝手に振る舞うことが多くあります。つまり、罪の相乗効果であり、悲惨なものとなっていくのです。

聖書は、「主の教育と訓戒によって育てなさい。」(4)と、イエス様の教育と訓戒を用いなさいと教えます。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。」(4)に繋がってあるように、もし親が主を信じ、主に従った上で教育と訓戒をしなければ、子どもたちは怒ってしまうのです。

「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」(創世記1・28)という人間存在に関する神の至上命令を全うすることを拒み、自分たちにとって都合の良い生き方をすることは、神の祝福を閉ざします。子どもを育て上げるということは、苦労の多く報われづらいことですが、だからこそ神の祝福があるのです。

へブル書の「わが子よ。」(12・5)は、私たち信者に対する声掛けです。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」「 訓練と思って耐え忍びなさい。」(12・6.7.)。自分の子を育てることに労苦し、疲れ果てることがあっても、それこそが、主の子である私たちに対する訓練であり、鞭なのです。

子どもを大事に育てようとすれば、夫も仕事一筋に生きるなんてことはできません。家族と一緒に過ごせないとして、日本の野球を辞めてアメリカに帰った選手がいましたが、仕事の為に家族を犠牲にするなどという考えを持った亭主たちは、老後に手痛い報復を受けるでしょう。仕事を最優先する論理を私は信仰者として持つべきではないと考えています。家族を大事にする為に、教会成長を諦めたことは事実です。そして、私は成長主義や成功を目的とする生き方を捨ててみて、聖書的な生き方であったと顧みるのです。能力的には、従業員より私がやる方が早いし優れています。しかし、失敗や挫折を見守りながら育てるほうが長期的にはメリットがあります。牧師として仕事をしながら、ガーデニングや研究ができるのは、そのように従業員を育ててきたからです。子育てをさせることが子の成長につながるように、神は私たちを育てようとしているのです。反発をする子は、それが終わるまで見守りましょう。

エペソ6章1~4節

  • 6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
  • 6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
  • 6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
  • 6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
  • ヘブル 12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
  • 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
  • 12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
  • 12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
  • 12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
  • 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
  • 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます