「背きと罪の中に死んでいた者だった。」 エペソ2章1~9節

 私は、高校時代に週に何度も利根川の河原に行き、川の流れを見ながら人生を考えたものでした。冬には枯れた風景、春は増量した雪解け水、夏は台風の荒れた濁流、秋はすすきの原、自分の将来はどのようになるのだろうと思いながら、負けてはならないと勉学に励んだものでした。

 貧しい草履商に出入りする人々を幼い頃から眺めながら、狡さ、巧妙さ、弱さ、怖さを知り、強くないと騙され負けてしまうと考えました。家族は平凡な家で、世の波風に対抗することはできないその日暮らしの人々だと、中学の頃には悟っていました。自分が彼らを助けることができるのかと模索する青年でした。小説は読みふけっていました。

 「自分の背きと罪の中に死んでいた者」(1)は直ぐに受け入れました。自分と周囲の人々の生き方を健全ではないと考えていたからです。武者小路実篤の「新しき村」運動に高校時代傾倒しましたが、それが崩壊したことに困惑しました。

 「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」(3)。更に、ある特定な人々には、悪や犯罪をもたらす何か邪悪なものを感じていました。

 「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(3)。これに気が付いたのは、救われた時でした。自分は人に迷惑を掛けたことはなく、善良な人間だと思っていたのです。そして、イエス・キリストの十字架の意味を知ってもなお、信じてしまうと宗教に囚われてしまうと恐れて拒否しようと思いました。熱く激しい力に満たされたのですが、自分の思い通りに生きようとする罪に気が付き、イエス様の十字架は私の為であることがわかったのでした。他人を非難する資格がなかったのです。

 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(4.5)。罪を認めて悔い改めると魂の救いを体験しました。長い間苦しんだ虚しさは、救いを求めてのことであると悟りました。

 救われて全く生活が変わりました。パチンコも麻雀も酒もタバコも、虚しさを紛らわすためのものであったことがわかり、する気がなくなりました。タバコだけは、中毒性があったのですが、虚しい生活に戻りたくないと、心を強くしました。

「この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すため」(7)に、良く伝道しました。友人たちは私の変わりように驚き、50人以上が教会に来ました。その中で救われたのは4人です。今でも、彼らは私の変化を話題にしますが、神を信じようとはしません。私は、あの救いの瞬間の自分の頑なさを思い出し、彼らを責めることも憐れむこともできません。

「恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。」(8)。私は、救われる時に神の声を聞きました。結んだ手を解いて、宗教的陶酔から抜け出ようとする私に、その手が熱くしびれ、その手からのように「信じなさい。信じなさい。あなたの信じる祈りの手の中にあってわたしはあなたを助け、導く。」と語り掛ける声を聞いたのでした。そして、聖霊のバプテスマを受け、約1か月後に洗礼を受けたのでした。

 「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(8.9)は、真実です。救われるだけのことをしていたわけではありません。

 それでも、牧師を長年していて、よくわかります。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16・9)。

 神は、人の心を見抜きます。ごまかしや嘘を言う人を嫌います。悪人を退けます。見せかけや表面上の信仰行為を認めません。能力や才能はなくても、誠実な人を愛します。言い訳や人を責める人の信仰は、付け焼刃であって、試練には立ちおおせません。

 「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れる時、称賛と栄光と誉れをもたらします。・・・あなたがたが、信仰の結果である魂の救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1・7.9)。

 多くの試練に遭いました。その多くは信仰を貫くからでもありました。それでも抜け出ることができたのは、やはり神の恵みによります。私は、人に嫌がられ、嫌われても、神への一心、誠実を貫こうと思っています。人は、罪びとですから、自分に都合の悪い人を非難し、攻撃します。私は、自分が罪人であったし、罪人でもありますから、罪人の姿が良く見えます。残念ながら、そういう人は、神に迎え入れられることはありません。恵みによって救われましたが、神の国に迎え入れられるためには、その歩みを吟味されます。ただ、執り成しをしながら、自分は罪に陥らないよう心掛ける次第です。

エペソ2章1~9節

  • 2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
  • 2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
  • 2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
  • 2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
  • 2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
  • 2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
  • 2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
  • 2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
  • 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。