「神の家族なのです。」 エペソ2章8~19節

神の家族、ということで何を考えるでしょうか。日本人の立派な家族観からすれば、信仰深い、立派な人格と能力を持った模範的な人間の集まりと考えられるかもしれません。

 私が初めて聖書を読んだ時、その記述されている人々の赤裸々な人間臭さ、罪深さから、作為的に小説のように作られたものではなく、正確な記録だと感じました。模範的な人間を描くことは、小説としてさえも面白くなく、現実にはありえません。

 ところが、未だに外観を偽ってこの理想像を追い求める人がおります。日本人クリスチャンの典型的な方であり、外部の人から見たら偽善者、洗脳された宗教者として映るかもしれません。

 8節には、「あなたがたは信仰によって救われたのです。」とあり、クリスチャンになったことは、能力や性格が理由ではなく、「神の賜物です。」として、神からのプレゼントであると示されています。「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 選びというのは、優秀だから、良い行いをしたから、などが、普通です。しかし、神の選びは、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(10)と、選んだ後に神が私たちを作り上げることに重点が置かれているのです。ですから、クリスチャンになったのは、選びだから、勝手に生きて良いということではありません。ペテロもヨハネも学歴のない漁師だったのですが、最後には福音書や手紙を書き残してイエス様の教えを神学的体系的に現わす才能を示し、また謙遜かつ高潔な人格を形成しています。

 ところが、せっかく選ばれたのに、教えよりも自分の考えを優先して金銭欲を満たしたユダは自殺して滅びる者となってしまいました。選びというものが、私たち自身の意識と行動に左右されて全く異なる結果をもたらしているのです

 神は人間を自由意志を持った存在として創造されました。ですから、選ばれたからといって、神の教えに従わず、勝手に生きる人は、滅ぼされるのです。「粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」(エレミヤ18・6)。「わたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。」(同10)。

神は私たちを神の子、神の家族になるように選ばれました。その人は、能力のない人もある人も、見栄えの悪い人も良い人も、性格も出身もみな異なりますが、そこから味のある「神の作品」を造り出すのです。それは人を比較し、格付けし、差別して争いを起こそうとするサタンの企みに対する、神の存在を掛けた逆襲なのです。

サタンは、「自分のいのちの代りには、人は財産全てを与えるものです。彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」(ヨブ2・4.5)と神に挑戦しました。もし、自由意志を与えられた人間が、自分勝手に生きるならば、神の義と統御の意義が損なわれていることとなり、サタンをも裁けなくなるからです。

「かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」(13)。多くの人々を見ていて、キリストの十字架の死が自分の罪を赦す為であることを信じ、救われた自分自身を稀な存在だと思います。

他の人々との間に「隔ての壁」(14)があることを、よく意識します。神を信じて生きている私たちに対する「敵意」(14)が魂を救われた者と救われていない者との間に強く存在します。私自身、魂が救われる前は、単純にイエスキリストを救い主を信じて生きている人々を、蔑み憐れむような気持ちでおりました。何で神を信じたかと言えば、神の導き、憐れみとしか言いようがありません。ただ、その導きに従って、ここまで信仰を保ってきたこと、いまある「平安」(15.16)を心から「福音」(17)として受け留めています。

そして、多様な形、導きで神の家族に導き入れられた教会員の存在に心から感動しています。まるで様々な素材からなった形の違う陶器が価値あるものとして並べられているようです。

「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(19)。神の国では、ペテロやヨハネだけでなく、トルストイやドフトエフスキー、内村鑑三、弓山喜代馬先生、その他、並みいる聖徒の方々と永遠に交えることができます。

「報いは要らない。」という人々がいますが、それは自己満足の行動と思いです。「大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」とイエス様が言われます。苦しさを乗り越えて神に仕えていくことは、神による慰めと報いが、この地上でもあるのです。

エペソ2章8~19節

  • 2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
  • 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
  • 2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
  • 2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、
  • 2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
  • 2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
  • 2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
  • 2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
  • 2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
  • 2:17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
  • 2:18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
  • 2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。