「私は、真っ直ぐに立つ。」詩編20編

苦難の時、問題にぶつかった時に、どのように行動するかで、その人の実態が明らかになります。人生にやり直しはなく、言い訳もできず、自分の存在で対応するので、神の国への準備ができているかどうかも、苦難の中で明らかになります。ただ、苦難への対応の失敗や過ちを通して、自らを修正し、成熟させ、強くすることができるので、苦難というのは、神の国への入国資格の試金石ということができます。

 この20篇は、ダビデ王が戦いの準備をしながらも、戦車や馬、そして兵士が十分でない時に歌われたものらしいです。人生は戦いです。逃げるわけにも、降参するわけにもいかないのです。戦いの勇気のない人は、神の国への道を歩むことができないのです。

1. 穀物の捧げ物とは(3)

 レビ記2章によれば、それは小麦に油を注ぎ、乳香と塩を添え、そのままか或は焼いて祭司に持っていき、祭司はその一部を焼き尽くし、残りは祭司のものとなります。祭司はそれを聖所の庭で食べます(レビ6・16)。これは、「主へのなだめのかおりの火による捧げ物」です。

2. 全焼のいけにえとは(3)

 傷のない牛、羊、山羊、鳩などの雄であり、捧げる人はその全焼のいけにえの頭に手を置き、自分を贖うための代わりであることを告白します。

 このように、信仰者は苦難の時に、神との関係を確認し、自らの罪を悔い改め、神との交流に入るのです。しばしば苦難の時に悩んだり思い煩ったりする人がおりますが、それはこの神への誓願をしない人です。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6.7)。

 罪びとの特徴が思い煩いであり、信仰者の特徴が喜びと平安です。どちらも、不確定な状況における対応の違いです。願うということは、人生にとって非常に大事なことです。日々の人生で「幸せになろう!」、「人を愛そう!」と願わなければ、その人は既に不幸です。先日、横を向いて歩いていたら、向かってきた女性から3歩前くらいなのに、「どこを向いているんだよ。」と不機嫌な顔で睨まれました。思わず、祝福を祈りました。

3. 主の御名を誇ろう(7)

 私自身の救われた時からのこれまでの歩みを振り返ると、主の恵みと導きばかりを思います。自らの判断でしたこと、自らの力で為そうとしたことは、困難の中で祈りに導かれ、そして忍耐を与えられ、勝利してきました。信仰とは忍耐ですが、その忍耐は主がおられ守ってくださっているという希望の中で生み出されたものです。

先日、長柄で作業していたら、恰幅の良い高齢者から声を掛けられました。紙面では書けませんが、大変な実力者でした。私が一生懸命働いて、一人で庭を作り上げていることに気が付いたので、うれしく思ったようです。つましく生活しているだけでなく、庭を作り上げようと努力していることに喜んだのです。村の建設の理念は、自然と人間が共生するふる里村憲章として表され、世界遺産のスイス・レマン湖周辺のグランボー村と国際姉妹村を締結したのでした。それが、ただの住宅地になりつつあることに失望していたようでした。高齢でありながら、かくしゃくとして希望をもって歩んでおられる姿に私もうれしく思いました。

 「いくさ車を誇り、馬を誇る」とは、現代ではどんなことでしょう。この時代の戦いにおいて、戦車や馬は恐ろしく強力な武器でした。敵の強大な兵器を前にして、味方は怖気づいています。多くのクリスチャンが、この社会における自らの弱さに怖気ついているのと同様です。

 実は、富や権力を握っている人々は、その不安定さに恐れているのです。戦車があっても、会社が強大であっても、その操縦する人、社員が弱ければ脆くも破れてしまうのです。だから、ゴーン氏のように強大な権力と財産があっても、さらに増やしたく願い、不正をしてしまうのです。「彼らは、ひざをつき、そして倒れた。」

4.私たちは、立ち上がり、真っ直ぐに立つ(8)

 その方は、私がいろいろな話を聞いても動じないでいることを不思議に思ったようでした。私の特徴は、人に動ぜず、物に驕らず、欲望に囚われないことのようです。15年くらい前、クラブメッドの外国人スタッフから「あなたはシリアスだ。」と言われ、子供たちから「どういう意味」と尋ねられたことがありました。私は、外国人だからといって迎合はしません。有名人にあっても卑屈にもなりません。

 自分の人生です。自分の容貌、体格、健康、能力、職業、地位、学歴、財産、家柄、そんなものにこだわってはいけません。自分の生き方を選ぶのです。時代にも、慣習にも、家にも、家族にも、囚われないで、真っ直ぐに立ちあがるのです。そして、「主よ。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。」と祈りの声を叫びあげ、人生の戦いを勝ち抜くのです。

私は、そのようにして教会の牧師、会社の経営者、医療法人の経営、治療の会の理事長として生き抜いてきました。いまだ、気力も体力も衰えてはいません。82歳のその方も、人生の戦いを生き抜いてきた気概を強く保持していました。世の中でも、強く生きてきた人は、やはり違うものです。そして、強く生きてきた者同士が感じる気概があるものです。

神の国で、あなたと会った時、「同士よ。よく戦い抜いてきたね。」と語り合うものでありたいと願います。

詩編20編

  • 指揮者のために。ダビデの賛歌
  • 20:1 苦難の日に【主】があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
  • 20:2 主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。
  • 20:3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。 セラ
  • 20:4 主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。
  • 20:5 私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。【主】があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。
  • 20:6 今こそ、私は知る。【主】は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
  • 20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、【主】の御名を誇ろう。
  • 20:8 彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
  • 20:9 【主】よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。