「私の助けはどこから来るのか。」詩編121編

30年ほど前、35歳くらいの時です。試練と困難が続き、嫌になってしまいました。妻子がおり、教会もあるので、逃げるわけにも負けるわけにもいきません。私は、悩むということは無意味であると若い時から分かっているので、この詩篇121編の讃美を思い出し、断食をしながら、山に向かって祈りに行きました。

 夜に出かけ、鬼怒川の祈祷院の方に向かいましたが、祈祷院では山ではないので、その近くの山を探しました。グーグルで調べると、どうも日光にある茶臼山517mのようです。ネットで映像をみると今は整備されていて登山ルートがありますが、当時はただの山道でした。何日か断食しながら祈ろうと思っていたので、人の来ない山を狙ったのです。

 持ち物は簡易テントを兼ねるポンチョと簡単な登山道具。そして水と少しの食料。午後に山頂について、火を起こし始めましたが、人の来ない所ですから、濡れた木ばかりでなかなか燃え上がりません。これが日本の伝道の現実だと思いながら、リバイバルを求めて、一生懸命燃やそうとします。5-6時間続けましたが、全く燃え上がらず、祈りに思いが集中しません。夜の10時を過ぎて、小雨が降り始め、どうにもならないとポンチョの下に隠れるのですが、雨が大降りになり、秋の寒さに危険を覚えて下山を始めました。道という道はなく、人が歩いた形跡のある登山道だけなので、夜道を懐中電灯で照らしても、草がぼうぼうでよくわかりません。

 まさかこんな低い山で遭難はないと思っていたのですが、危なさを感じ必死に祈り始めました。日本や教会のリバイバルの前に、妻子を抱えて死ぬわけにもいきません。5時間くらいかかってやっと山を下りると、車を置いた場所のすぐ脇に町営の露天風呂があり、箱にお金を入れて浸りました。本当に気持ちが良く、さっきまでの緊張が綻び、まるでエリヤを慰めたパン菓子と水のようだなと思いました(Ⅰ列王記19・6)。

 皆さんには何度も話した体験ですが、忘れられない信仰の悟りでした。じたばたせず、山に向かって(天に向かって)目を上げ、助けを求めれば良いのです。天には行くこともできないのですから、わざわざ山に行かなくても良いのです。まして、山頂に上って、夜通し神に訴えなくても、「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4)のです。今週は、次の歌を紹介します。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは天と地の造り主、主なる神様から来る。君はひとり誰かを求めている。それが誰かは知らないだろう。君の心を満たしてくれる人は、君を造られたお方。」

 問題や困難が起こると思い煩う人がいます。それは、神を信じる以前の習性、考え方から抜け出ていないからです。

「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5・17)とあるように、「古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4・22-24)。つまり、クリスチャンとして新しい人になることを信じること、そして、古い自分の考え方あり方を捨て去るのです。

 その為には、どうしたら良いのでしょうか。テレビや新聞などを見ずに、ともかく洗脳され、頭がそれ一杯になるほどに聖書を読み続けるのです。悪いものや欲望に囚われたり、悪い教えに洗脳されるのはよくありません。しかし、実は、皆さん、多くの人がこの世の教えに既に洗脳されているのです。自分の責任と努力、そして能力で生きなさいと言うのですが、実際には恵まれている人々は、すでに多くの助けを受けているのです。

 私は、奨学金で大学、大学院に行き、全て自分の力で生きてきました。失敗をしたら終わりの人生でしたが、神を信じて安心しました。救われたのは、1976年3月31日、天城山荘で行われた金沢教会の日曜学校教師研修会でした。その前の卓球で、私は負けまいとする迫力、殺気で強かったのです。ところが、救われ同時に聖霊のバプテスマを受けて1時間くらい祈り続けたでしょうか。何か光り輝いた人生に生まれ変わったことがわかりました。その後の卓球では、全く迫力がなくなり、勝つことに執念がわかなくなりました。神共にあるならば、人間の力などいくら努力しても大したことがないと思ったのでした。

 その前兆は前年の12月28日に参加した初めての礼拝の聖餐式で、神に私への招きを求めて受け入れられたことを経験した時にもありました。帰省して友人たちとマージャンをしたのですが、全く勝負に拘泥しなくなり、次々に役満を得て大勝利したのでしたが、やりながら、ギャンブルはこれで最後、タバコもこれで最後と決めていたのです。キリストにあって、新しくされたのでした。

 実は、多くの人がキリストにある救いの体験や決心をないがしろにしています。それは、この世の情報を得すぎているからです。そして、聖書をあまり読んでいないからです。そんなことで、クリスチャンとして信仰の人生を力強く生きられるはずがありません。

 あなたの助け、あなたを満たしてくださるのは、キリスト・イエスお一人なのです。

詩編121編

  • 都上りの歌
  • 121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
  • 121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
  • 121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
  • 121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
  • 121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
  • 121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
  • 121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
  • 121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。