「永遠の戸よ。上がれ!」詩編24編

ダビデがイスラエルの王になった(Ⅰ歴代誌12・38)時、「神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。」(13・3)と呼びかけました。「ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り踊った。」(13・8)。ところが、彼らは、律法に反して牛車に神の箱を載せて運んだので、箱を抑えたウザが神罰で死にました。

 勝手な采配は、いくら心を込めても神の前には受け入れられません。讃美と演歌や歌との違いは、神を崇めるか、自らの経験や心を歌にするかの違いだけでなく、讃美する者の姿勢、神に従って生きているかどうかが、大きな鍵となっています。不信仰者、ふしだらな者が、讃美として神を心から崇めても、受け入れられないのです。現代人は、そのような真摯な姿勢や生き方を理解せず、その場、その時だけの技術的なもの、或は専門性で評価や判断をしがちです。

神の箱の運搬を取り仕切っていたウザの死は、ダビデにも人々にも衝撃的でした。奉仕をする者は、その奉仕にふさわしい生き方をしていなければならないのです。先週、櫻井先生が「真の神の民に限ります。名目上の基督者、洗礼だけ受けた信者、牧師や教師という肩書きだけの者」には、神の栄光が現れることはない、と言われたことと同様です。「一生懸命ならば良い」のではなく、神に誠実に従っているかどうかが大事なのです。

 ダビデは悔い改め、「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」(Ⅰ歴代誌15・2)と民に教えました。教会は、神の民の集まりであり、この世の教えや在り方については十分注意をしなければなりません。人前で讃美をすると、その人の日常の信仰が露わになります。教会に信仰性と聖めがなくなるのは、この世の技術的卓越性が入り込むからです。注意をしなければなりません。

 ダビデは、神の箱をエルサレムに運び入れるために、レビ人862人に「身を聖別」(15・14)(身体と服を洗い清め、女性に近づかず、あらゆる汚れから遠ざかる)させ、奉仕にあたりました。さらに「七頭の雄牛と七頭のお羊をいけにえとして捧げた。」(15・26)とあります。全焼の生贄とは、全て焼いてしまうことです。神に受け入れられるということは、損得を考えたり、ケチな人には無理です。自分の流儀ではなく、神に従うことが必要なこととなり、そこには打算なしの神への信仰というものが要求されるからです。

 「誰が、主の山に登り得ようか。誰が、その聖なる所に立ち得ようか。」(3)、との答えは、「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」(4)しかないのです。「手がきよく」とは、不正やごまかしをしていない人です。この世の方便として嘘をつくようなことをしない人です。「心がきよらかな者」とは、裏表や嘘偽りがなく、純粋な人です。「心がきよらなかでは、この世では生きていけない」と考える人は、清らかではありません。私の妻は、馬鹿なほど心が清らかです。だから、私が妻に仕えるために遣わされたのです。そして、私もまた、その感化を受けて、清らかになりつつあります。まだ、濁っていますが、努力を続けています。主はご存知です。

 「その魂を虚しいことに向けず」(4)とは、富や名誉、娯楽や快楽に向けずに、魂を質実剛健に鍛えていることです。「欺き誓」う人は多くおります。残念ながら、信仰者を装っても、真摯に神に従っていなければ、平安や喜びはありません。「救いの神から義を受ける」(5)とは、神との交流であり、日々、神と会い、語り掛けを聞いて喜び、恵みを受ける人です。そういうことの実践、毎日の生活が、信仰生活というものです。単に、教会に行くとか、聖書を読むとか、祈りをするとか、宗教活動のものではないのです。この「祝福を受け」ないならば、その人の信仰は本物ではありません。自らを注意して、神にある交流を身に着けてください。私たちに必要なことは、何をしているとか、教会で奉仕しているとか、そういうことではなくて、「神の御顔を慕い求める」(6)ことなのです。

 さて、そのように歩む人にこそ、「永遠の門」を褒め称えることができるのです。私は、皆さんを責めているのではありません。自らをチェックして、神の国に相応しい者かどうかを吟味して、神の国の喜びを味わう人になってください。それを自分のものにしてください、と教えているのです。

 日本は、形式社会であり、本音と建て前が混同している社会です。しかし、神の国は、救われた者、神を慕い求めている者には現実なのです。毎日の生活を振返れば、自らが「聖なる所に立ち得ようか」どうかはわかるものです。

 妻も検査の為の断食を毎週し、そして年末の診察の忙しさで可哀そうなほど苦労しています。しかし、そのような試練の時に、不思議な平安と感動、神の支えと励ましを感じます。確かに、私たちは神の国への道を歩んでいるのです。私たちの前に、「永遠の戸が上が」り、主イエスと共に、その門を入るのです。

 もう一度、語ります。救われていないのに、救われたふりをしてはいけません。神の前に悔い改め、真の救いを得てください。救われたのに、堕落してこの世の惑わしにあったのなら、悔い改め、戻り自らを清めてください。

 あなたの前に、来年、祝福の門が開き、上がります。

詩編24編

  • ダビデの賛歌
  • 24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。
  • 24:2 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
  • 24:3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
  • 24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
  • 24:5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
  • 24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ
  • 24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
  • 24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】。
  • 24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
  • 24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の【主】。これぞ、栄光の王。 セラ