異言は人の徳を高める。Ⅰコリント14章1~5節

今日はイースターから7週間後、つまり過ぎ越しの祭りから五十日後であり、民数記二十八章26節には初穂の日、つまり小麦の初穂を収穫し神に捧げる祭りでもあった。イエス様は過ぎ越しの祭りの日によみがえり、これをイースターと名付けて祝ったのは当然後のことである。イエス様は40日間、弟子達に現れて、「神の国のこととご自分が生きていることを占めされた。」(使徒1:3)。イエス様は確かに一度死なれたが、今は生きておられるのである。

  そして、イエス様は天に昇られた。それは同じように再び来られることを明示されてのことであった。イエス様は何度もご自分が十字架に掛けられることを語られていたが弟子達は信じなかった。イエス様は更に、ご自分が再びこの地上に王として来られることを何度も教えておられるが、現在の弟子である私たち信者は、それをどれほど真剣に受けとめているだろうか。

  さて、昇天される前に弟子達に、聖霊のバプテスマを受けることを待っていなさいと言われた。弟子達は既にイエス様の十字架を信じ、救われていたので、救いと聖霊のバプテスマは明らかに異なるものである。聖霊のバプテスマは使徒の一章八節にあるように伝道の力を与えるものである。聖霊のバプテスマによる霊的パワーこそクリスチャンがこの世において勝利し思い煩わないための原動力である。だからイエス様は、この聖霊のバプテスマを与えるという父なる神の約束を待つためにエルサレムから離れてはならないと命じられたのである。

 弟子達は、集まって祈りに専念し、聖霊のバプテスマを与えられるよう待ち望んでいた。ペンテコステの日になると、突然その集まっていた家全体に聖霊が臨み、彼らは異言のメッセージを語り始めた。御霊の賜物の中で異言の賜物というものは、私たち日本人にとっては知らない言語を神の超自然的な介入によって語らせられ、それを聞き理解する人々には神の業として明らかに認識できるものである。具体的には、例えばフランス語を聞いたことのない日本人のおばあちゃんが流ちょうなフランス語で、フランス人に神の真理を語るようなことである。従って、Ⅰコリント14章22節にあるように「異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるし」なのである。つまり、信者はそのような超自然的に語られなくても、真摯に神の言葉として受け容れるからである。 それでは信者には、どのように神の言葉を語られるのだろうか。それは預言である。だから「預言することを熱心に求めなさい」となるのである。「預言は教会の徳を高めます。」とあるように、「神から、この教会に何が語られているか」、「自分たちはどうすればよいのだろうか」、などということを「預言」(神から言葉を預かる)によって知ろうとするのである。

  皆さんは、「神から語りかけられる」、「知らされる」ということを求めているだろうか。異常なこと、変に思われる、狂信的になる、などとして敬遠していないだろうか。そう考えているとすれば、そういう人は神が異常なことをする神であり、変な神であると信じていることになる。確かに神懸かり、などとして神のことばを聞くのは超自然的霊能者であって、正常な精神を持っていると霊的関知力は強くなれないという考え方が日本にはある。しかし、それはキリスト教ではなく、本当の神ではなく、似非宗教であると、私たちは知っているはずである。似非宗教が神懸かりをするのなら、本物の宗教であるキリスト教の信者が、神の教え、語りかけを切に求めないのは、偽物に本物が駆逐されているようである。

 さて、異言は12章10節にあるように、異言の解きあかしの賜物が伴わないと、同国人だけの集会ではなんのことかわからないものとなってしまう。また、私たちアッセンブリー教団を含む、ペンテコステ教団と言うものは、異言を「賜物」としてのものではなく、「しるし」としての異言として強調しているのである。これは、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義をはなすからです。」(2節)というものであって、「御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、良いようもない深いうめきによって、私たちのために取りなしてくださいます。」(ローマ8:26)というように、異言は、私たちには何を祈っているのかわからないのですが、私たちの口を通じて聖霊様が私たちのために取りなしの祈りをしてくださるのである。だから、異言の祈りをすると、なんだかわからないけれど、すっきりする。異言の祈りを知らない人は、この世の思い煩いに振り回されるけれども、異言の祈りをパウロのように多く祈る人は、力ある働きをすることができる。霊性はその人の人格を形成し、悪の働きや誘惑、罪に対する強力な防衛力であり、武器なのである。だれよりも異言の祈りを多く祈ろうではないか。

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atushitakano