「私たちへの教訓。」 Ⅰコリント10章1~11節

年が変わるのは地球が太陽を一周する期間、だいたい365日で、4年に1日を追加して調整します。1月は太陽を一周する期間、1日は地球が1周する時間です。1時間とは1日を24等分したもの、1分はそれを60等分、1秒はさらに60等分したものです。60という数字は2から6までの数字で割り切れるので日常的に使うのに都合の良い数字で、紀元前2000年前のバビロニアで使われていたそうです。

1週が7日間というのは、聖書から来たもので週の初めは日曜日であり、7日目の土曜は神様が創造を完成して休まれたので安息日となったのです。ヨーロッパでは週の初めは月曜で、イスラム式には土曜が週の初めです。終末は土日とされますが、宗教によっては相応しくない場合があります。

新しい年というと、枯れ果てる冬を過ぎ新芽が芽生えて新しい出発を意識させます。その年を有意義に生きる為には、やはり年を意識したほうが良いと思います。

「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。」の「雲の下」とは、「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすために火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。」(出エジプト13・21)とあるように、神の超自然的臨在に導かれた経験を言います。更に、「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」(出14・16)ということです。それは、「モーセにつくバプテスマ」(2)であったと指摘します。

更に「御霊の食べ物」(3)である「天からのパン」(出16・4)と「うずら」(出16・13)の肉を食べ、「あなたはその岩を打て、岩から水が出て、民はそれを飲む。」(出17・6)という「御霊の飲み物」(4)を飲んだのです。そのような奇跡と祝福を体験してもなお、「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」(5)。このように信仰を失うことは容易く、大部分の人が滅びているということを、「実例として」(6)私たちは自らを戒めなければならないのです。

実例の第一は「偶像崇拝者」です。モーセがシナイ山に上っていて「一向に下りて来ようとしない」(出32・1)ので、すぐに金の子牛を鋳造し、それを神としたのでした。神は、「実に、うなじを固くする民だ。」(32・9)と怒ります。うなじを固くするとは強情という意味ですが、神の言うことを聞かないのです。偶像礼拝するということは自分の都合の良いように信仰生活を操作し、それを神の思し召しだと偽るのです。

 第二の実例は「姦淫」です。いつの時代でも人にとって最大の誘惑は性的なものです。これで一瞬にして人生、家庭、仕事を崩壊させるのですが、堕落した社会はそれを生きる為の原動力のように肯定するのです。商業も、マスコミも、芸術も、性欲を煽って反映しています。

 第三の実例は「主を試みること」です。かれらは、「この惨めな食べ物に飽き飽きしている。」(民数記21・5)と長い旅路に文句を言うのです。人は自分の好き勝手に生きるならば命も惜しいとは思わず、冒険も無謀な行いも構わないのです。しかし、従って生きる、のは誠実かつ謙遜でなければできません。悔い改めて救いを望む人々に、神は青銅の蛇を作り、「それを仰ぎ見れば生きる。」(民21・8)と言われました。蛇に咬まれることは避けられないけれど、旗竿の上に掲げられた不気味な蛇を直視して救いを求めるのです。蛇は自らの罪です。十字架に掛けられた無残な主イエスの姿は、私たちの罪の姿であり、それを見つめなければならないのです。

 第四の実例は、「つぶやくこと」です。コラは、「なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(民16・3)とモーセを非難しました。モーセは民をまとめる指導者というよりも、神に支配されてカナンを目指すイスラエルの民を指導する神の代弁者です。後に神権政治を気に食わない人々が王を要求したように、神による指導というものは人間には理解できないことが多いのです。モーセの指導は、イスラエルの民が神の国へ行くために必要なことだったのに、かれらは自分の都合の良いことを求めたのです。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり」(11)とは、聖書の記述は、ただの歴史書ではなく、人間の罪性を詳述して私たちが同じ過ちをしないためであり、「世の終わりに臨んでいる私たち」にとって、決して忘れてはならない教訓だからです。終末は、イエス様が何度も警告されているように、人類にとって未曽有の困難な時代となります。乗り越えるということは、避けたり、逃げたり、戸惑っていてはできないことです。困難でも、苦しくても、敵が多くても、前進をしなければならないということです。そのために教訓があるのです。

Ⅰコリント10章1~11節

  • 10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました
  • 10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
  • 10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
  • 10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
  • 10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
  • 10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
  • 10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
  • 10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
  • 10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
  • 10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
  • 10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
  • 10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。