「神の国は言葉ではなく力にある。」Ⅰコリント4章10~20節

パウロはパリサイ派の厳格な教育指導を受け、ローマ市民権を持つ有力な家柄であり、ギリシャ語も話すという、12使徒の中では群を抜いて博学であり、神学者でもありました。キリスト教徒を捕える為に奔走している途中、馬上でキリストの光に当てられ、劇的な回心をしたのでした。

 キリスト教がその後の異端から守られ、それ以前のユダヤ教の戒律から解放され、さらに異教との違いを明確に確保したのは、パウロによる以外にはないほど、偉大な貢献をしました。ところが、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」(Ⅱコリント10・10)と言われるように、外見は貧相で、ドモリだったという説もあります。伝説では、小柄でハゲで、背骨も足も曲がっていたという話もあります。今、私たちの中にパウロがいれば、頑固で理屈が多く、ふうさいもパッとしない、嫌な人のように見えるかもしれません。

 ところが、パウロの行動は驚くばかりに力強く、忍耐と努力の人でした。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント11・23-27)

 「思いあがっている人たち」がすることは、理屈です。キリスト教異端は、先週語ったように、クリスチャンをターゲットにします。日本人は、知識欲が強いので、説得には弱いのです。テレビコマーシャルを見ていて、購入を促すテクニックの見事さに感嘆します。これで必要の無い物まで買って、置き場がなくなり、サプリや食べ物も摂りきれなくなるのでしょう。物を買うから幸せになるのではなく、便利になるかどうかは、本人次第です。サプリを摂るからといって健康になるのでもなく、運動したからといって筋肉が付くわけでもありません。ところが、多くの人が、それに関わることによって、自分は努力しているのだと言い訳をしているのです。愚かな人は、言い訳のために人生を費やします。昔、「キリストさんはまだお参りしたことがない。」と言って、講壇の前で祈らせてくれ、という人がいました。これで天国の保証を取ったつもりなのでしょう。

「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。」(10)。信仰を損得で考え、礼拝で信仰の極意や良き知恵を得ようとする人は多くおります。他方、多くを献げ、多くの奉仕をし、多くの祈りを積む愚かな人もおります。「自分の宝は、天に貯えなさい。」(マタイ6・20)。

 「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。」(11)。なぜなら、「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3・20)。神を信じるからこそ、この世での報いのない働きを甘んじて行います。むしろ、損得で考え、この世の成功を考えることこそが、国籍が天にはないことの証明となります。だからといって、報いのない働きに甘んじるのではなく、報いのない働きを通して、神の国が伝わり、神を信じる者が起こることを願って、ひたむきに働くのです。

 日曜の大事な時間を教会に来て、礼拝を献げ、献金をし、奉仕をするということは、信仰者でない者にとっては愚かであり、損です。昨年まで教会に来ていた家族が、今は毎週息子の野球の応援に行っていると聞きました。全く構いません。ただ、その人は、神の前に「自分は神を信じてはいない。」という証明をしたのです。その人の信仰は偽りであったのです。そのような人が祈っても聞かれると思いません。

「神の国は力にあるのです。」(20)。パウロの人生には、奇跡と癒しが付き物でした。「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12・10)。これが神の国の奥義です。

 力のある時に人を助け、金があれば献金し、時間があれば奉仕をする、そういう生き方は、信仰者ではなく、普通の人の生き方です。そういう人は、力があれば自らの楽しみに掛け、金があれば自らに費やし、時間があれば自分の思い通りに過ごすことになります。その人生に報いはなく、幸せになれるものではありません。「無理をしない。」という信条は、「神を信じていない。神は助けてくれないと信じている。」証明でもあります。

 時間を自分の思い通りに費やすことの繰り返しは、結局のところ、何の駅にもなりません。そして、神の国の力は、その人に及ぶことはありません。私は、今日は疲れ果て、この説教は夜中の2時にできる予定です。それでも、神は私に健康を与え、明日の御業のための息吹を注いでくださるのです。

Ⅰコリント4章10~20節

  • 4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
  • 4:11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
  • 4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
  • 4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
  • 4:14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
  • 4:15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
  • 4:16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
  • 4:17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
  • 4:18 私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。
  • 4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
  • 4:20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。