「キリストの身体の部分。」 Ⅰコリント12章14~27節 

猛暑ですが、世界にはそのような暑さの中で暮らしている人々がいます。酷寒の地でも人間は暮らしています。必要なものを得、対応した生活をすれば生きられる適応力は知恵のある人間ならではのことです。

新型コロナウイルスの感染を恐れたワクチン接種や暑さへの対応は、科学力で困難や物事に対応しようとする努力の象徴です。しかし、それは個人の努力や管理を訴えない集団的な防衛策であり、結局のところ、人間は弱体化して免疫力は衰え、経費は掛かり、一部の人の労力が増えることになり、社会が崩壊していくことになります。

その理由は、社会も医療も、個人の努力や管理を期待していないということです。そして、政府や医師に任せれば、病気や感染に対応できると教えているのです。熱中症対策としてエアコンを付けろと言いますが、それで電力が不足して停電となり、エアコンが付けられなくなるのです。消費主義に立ち、商業的な観点ばかりで物事を考えているのです。

高齢者や身体の弱い人には、エアコンは大事であり、控えたら命取りになります。しかし、一律的かつ消費的な対応を促してばかりで経済力を必要とするので、格差が大きくなり、弱者切り捨ての傾向にあるのです。そのようにして、経済力がなければ生きていけない、強者になれ、優秀になれ、と叱咤激励して、世界中で高学歴、高収入を求める弱肉強食の社会に進んでいるのです。

生きる為には知恵が必要ですが、毎日の生活で知恵を使っているでしょうか。「愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1・7)とあるように、世が与える知識に惑わされて、自らを弱く、愚かにしていくばかりです。その挙句に、「人を助ける余裕はない。金を貯め、能力を積んでいくばかりだ。」と自己中心になっていくのです。そういう人々にとって、もはや宗教は無駄の象徴となります。

今日の聖句は、そのような風潮と相対します。

1. 優劣がない。

 「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」(22)。手、足、頭、それぞれ機能が違うだけで重要性に違いはないのです。それが教会員一人一人だというのです。現代の優劣を競い、収入を上げ、裕福に暮らそうという風潮と聖書は違うのです。

2.劣った部分が大事にされる。

「見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。」(23)。弱い部分を大事にし、機能的に劣っている部分を支えます。全体が機能するということです。

3.全体の働きの為に配慮し合う。

「各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」(25)。

クリスチャンが、自分の弱い部分を隠し、優秀になろうとするのは、この世に惑わされているからです。だから、弱い人や助けの必要な人を配慮しないで自己中心な罪の言動を繰り返し、堕落していくのです。

自己管理というのは、自分を慈しむことです。弱さも欠点も自らのものであり、それを認めてこそ、大事に毎日を生きることができるのです。身体を大事にして夜にエアコンを付けたり、エアコンが必要のないような生活を模索したりする知恵を持って生きるのです。身体を壊すのに、美食や不摂生を繰り返すのは、怠惰な生活を愛するからです。そして、他の人と関わらずに、都合の良いように要求をして生きるのです。人と話ができず、弱さや苦労を語り合えない人生は、天国には繋がらないものです。

歳を取り、身体が衰え、思うように生きられなくなった時にこそ、真価が問われます。不満や要求を繰り返す人は、かなりまずいでしょう。人の助けを得たくない、という人はキリストの身体に属していないのでしょう。昔話、自慢話しか話せない人は、神の国に迎えられることを自ら諦めているのでしょう。

不器用で人に迷惑を掛けてばかりいると思うからこそ、謙遜になり、神に助けを求め、聖められていくという奥義があります。私自身は、努力をして能力も力も与えられてきましたが、指導者としての未熟さにおののくばかりです。「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」(ルカ12・48)を覚えています。

教会には、身体の奥義としても、多様な人々が集っています。強い人、弱い人、優秀な人、不器用な人、勝手な人、配慮のある人、頑固な人、優しい人、・・・。それぞれが自分の聖めの水準で物事を考え、働いています。悲惨な生き方、死に方もあるでしょう。人は自分に都合の良いように生きようとしますが、全て神に覚えられています。生き方を世の指導や知識に従うよりも、神の目を意識して自らの使命を果たすべきです。

Ⅰコリント12章14~27節

  • 12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
  • 12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
  • 12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
  • 12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
  • 12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
  • 12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
  • 12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
  • 12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
  • 12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
  • 12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
  • 12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
  • 12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
  • 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
  • 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。