「愚か者の神。」Ⅰコリント1章18~27節

イエス・キリストのご生誕は、この世の基準では愚か者の勝利の報告です。バプテスマのヨハネを生んだザカリヤとエリサベツ夫妻は、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」(ルカ1・6)夫婦です。

母マリヤは独身なのに、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。」(ルカ1・31)と天使に言われ、すぐに「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1・38)と試練を受け入れます。

父ヨセフは、最愛の女性への理不尽な神の取り扱いを受け入れ、母子を守り貫きました。「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」(27)とあるように、自分の理性、知性を神への従順に委ねたのです。

「平和が御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2・14)と天使に語られたのは、羊飼いたちだけでした。夜中ですから、彼らは羊を放置してベツレヘムに出かけ、家畜小屋に「飼い葉おけに寝ておられるみどりごとを探し当てた。」(ルカ2・16)のです。

老シメオンは、「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」(ルカ2・25)。シメオンは、幼子がキリストであることに気が付き、救い主と告白し、その将来の苦難を預言するという驚くべき霊性を持っていました。年老いて霊性が鈍くなる人と、霊性が聖く鋭くなる人との違いに用心しなければなりません。

 女預言者アンナは先週話した通り、その愚かと言えるほどの献身が神に受け入れられたのでした。

東方の博士たちは、星の異変に気が付き、高価な贈り物を赤子に献げるために、わざわざ長い旅行をしました。彼らの贈り物が無ければ、聖家族は長年にわたるエジプト旅行をすることはできませんでした。神ご自身が、彼らにその思いと行動を起こさせ、犠牲をかけさせたのです。彼らは、損得計算では為しえない献身をしてイエス様を助けたのです。

何度も語っていますが、私は今日の聖句を自らの指針として「信仰は理屈ではない。損得を考えてはならない。愚かなほど、神を信じて歩む。」と大事にしています。自分で考えた成功の道を歩めば、神の道を踏み外すと、この聖句によって悟りました。神を信じるという多くの人が、打算の人生を歩み、神の助けも恵みもなく生きています。

ザカリヤには、「あなたの願いが聞かれたのです。」(ルカ1・13)と語られています。必死な願いを持つ時に、人は何よりも優先します。長男を妊娠した時に妻は21日間の切迫流産でした。健康な子供が産まれることを願い、用意した出産費用を献金してしまいました。ところが、その後、妻の同級生からの支援や他のことでそれ以上の収入を得ました。次女の出産の時は、開業後10カ月しか経ってないので倒産を覚悟しました。私たちにとって子供の誕生は、クリニックよりも大事だったのです。しかし、当然、神の超自然的な祝福を願いました。次男が非行した時には、過労で心臓を悪くして死を覚悟しました。それで安い家賃の会堂に移ったのでした。私たちには、自分の命よりも教会の存続の方が大事でした。

 「自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」(21)。自分の知恵や能力によって生きる者に、神は決して奇跡や超自然的祝福を起こしません。その必要が無いように、自分の能力で生きているからです。妻は、この1月は大腸がん、12月は脊柱管狭窄症となりましたが、神は全く速やかに癒してくださいました。妻の働きと収入なしには確かにこの教会は経済的には数カ月しかもちません。貯えが教会にも、私たち夫婦にもないからです。神は妻に対して超自然的に癒すしかないのです。がんの時には、がん保険が存続に丁度の額でした。

 イエス・キリストは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(ヨハネ12・24-26)と言われました。

 自分が犠牲になること、ある場合には死ぬことも恐れてはなりません。自分の命を惜しむ者は、却って我欲の沼に落ち込むのです。「自分のいのちを憎む」とは、欲に釣られて生きることを憎むということです。

 「知恵ある者をはずかしめる」(27)とは、自分の知恵によって狡猾に生きようとする者を神は罰するということです。「愚か」、「弱い」と言われる者が、神を信じることによって強くなるのです。だからこそ、神の栄光なのです。

 来年の計画や抱負を考える時期です。自分の為に蓄え、富もうと考えてはなりません。人に与え、人を助け、神の祝福無しには生きられない人生を考えてみてください。あなたは間違いなく、祈り深く、敬虔な人になります。

Ⅰコリント1章18~27節

  • 1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
  • 1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
  • 1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
  • 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
  • 1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
  • 1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
  • 1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
  • 1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
  • 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
  • 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。