「信じる者になりなさい。」 ヨハネ20章24~31節

トマスが、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言ったのも、よく理解できます。「主が私にこう言われた」と言う人がいますが、それは実際に語りかけられたのでしょうか。心に示されたのでしょうか。

 私は、実際に主の幻を見ました。聖霊の語りかけを聖霊のバプテスマを受けた時に聞きました。幻も見ました。それでも、「主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エ20・7)とあるので、自分の行為の正当化に主の名を決して使わないようにしています。

 判断力や知性からしたら、死んだ人がよみがえり、生きて動いているということを信じる人は、まともではありません。23億人のクリスチャンのうち、何人がそれを信じているでしょうか。

 異端かどうかを確認するためには、①三位一体の教義、②イエスの復活信仰、③イエスの十字架による贖罪、④聖書の十全霊感、などの教理の確率が必要です。

 クリスチャンかどうかの確認には、洗礼を受けているかどうか、どこの教会か、などと聞かれます。しかし、それでも神の国に入れるかどうかの保証はありません。

 イエス様を救い主と信じていると言う人が全て、信仰深く歩んでいるわけではありません。悪さをする人もいるし、嘘やごまかしをする人もいれば、礼拝も祈りもしていない人もいます。その人たちを、信仰者かどうか、他人が吟味する必要はないのですが、自分では確認しておく必要があります。ところが、信仰を深く考えないで、「信じている」と言う人もいます。「羊飼いが羊をヤギからより分けるように」(マタイ25・32)、神は私たちの信仰を確認しますよ、と伝えても自分を吟味しない人がいます。救われていないのか、救われた後に堕落したのか、性格が悪いだけなのか、或いは信仰者を装っているのか、わからないものです。  

 トマスは、信じられないものは、「信じません」と言い、主イエスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と諭されました。信じられないことと、信じられることを確認しなければ、信じるようにはなれません。信じていないことを、信じていると言ってしまうと、その後の信仰生活があやふやになってきます。
 私は、自分の聖霊のバプテスマが、自己催眠のようなものかどうか確認したくて、他の人に手を置いた時、自分から力が出ていくのを感じ、彼がその時、聖霊のバプテスマを受けたのを見て、安心しました。

 永遠のいのちの確信がなく、イメージとして銃口を自分の頭に向け、2年後に恐れがなくなりました。その後、やくざに襲われた時に、逆に脅すことができたのも、その経験があったからです。

 十字架に掛けられたイエス様の幻を見て、試練や困難から逃れようとする自我を恥じました。

 信仰には段階があります。そして、サタンの惑わしや誘惑、また自らの弱さや罪もあります。一度、イエス様を救い主として信じたからといって、そのままスムーズに神の国に導かれるということは殆どありません。「天路歴程」という本にあるように、多くの試練と誘惑を乗り越えてしか、天にはいけないのです。

 「疑い深いトマス」と呼ばれますが、私はトマスの疑問は壮年として当然なものだと思います。トマスは、イエス様に会ったとたんに、「私の主、私の神よ。」と礼拝しています。他の弟子たちも、最初は信じられなかったのです。信者として、信じきれないのに、信じているふりをするならば、信仰は必ず揺れ動きます。トマスは、その後、インドに渡って布教し、殉教したとされています。

 復活を信じることこそ、その人の信仰の真実さを示します。殆どの人は、「死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは『そのことについては、もう一度聞くことにしよう』と言った。」(使徒17・32)。と相手にしないのです。しかし、「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。」(使徒4・33)。「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(Ⅰコリント15・14)。

 信仰は趣味や教養ではありません。人生の成否が掛かった命がけのものです。復活を信じるならば、病も死も恐れることはありません。神は、信仰者におざなりのものを求めてはいません。復活を信じるならば、自分の考えも主張も価値のないものになるのです。

ヨハネ20章24~31節

  • 20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
  • 20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
  • 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
  • 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
  • 20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
  • 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
  • 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
  • 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

投稿者プロフィール

MYoshi
MYoshi