「神の子の後先。」 ヨハネの福音書1章1~14節 今週のメッセージ
日本の特徴は、言葉に真実性がないということです。政治家が言葉を撤回するということがしばしばありますが、それを認めている文化は信用できません。個人でも、言い訳がまかり通っていますが、自分の言動を弁解したり、説明し直したりことは、その人の真実性が疑われます。語ってしまったことは全て自分自身であり、誤っていたとしたら素直に謝るべきであって、正当化することは詭弁です。神の前に通じません。
「ことばは神であった。」(1)。「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」(創世記1・3)という言葉の力を認めなければ、神信仰は欺瞞になります。神が宣言されたことは全て実現し、私たちが話した言葉もすべて神の前にその人の言動として記録され、また語った通りに実現していくのです。詭弁ではなく、実際なのです。
「主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。」(箴言8・22-24)。「すべてのものは、この方によって造られた。」(3)のです。
「すべての人を照らすそのまことの光」(9)である神の子によって、人の全容は神の前に明らかであり、隠しようがありません。「自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(ヨハネ3・19-21)。
自分の素性、全ての言動、思いが神の前にさらされていることを意識し、覚悟して、神の前に出るのです。神を信じない人々は、「その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」のです。或は、最初に述べたように、神の前にさらされていることに気が付いていない、意識していない人々がいます。つまり、神の実在、大能に直面していないで、自分を他の宗教人と同じように、クリスチャンと思い込んでいるのです。そういう人は、聖めがないので、真に救われたクリスチャンから見ると違和感があります。一目を意識しながら、隠れたところにおられ、全てを知っておられる神に気が付かないのです。熱心な信仰者であると装うほど違和感があるのです。
ところが、聖書は、「義人はいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。」(ローマ3・10.11)と指摘しています。そのような「ご自分の民はこの方を受け容れなかった。」(11)という人間のために、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)のです。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4)。イエス様のいのちが人をいのちあるものとするのです。「闇はこれに打ち勝たなかった。」(5)のです。どのようにすれば、このいのちが人にあたえられるのでしょうか。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2・6-8)。
聖研でヨブ記を学びました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1・21)と破産し、子どもたちが皆死んでも、決して不満を言いませんでした。さらに、悪性の皮膚病になっても、「私たちは幸いを神から受けるのだから、災いも受けるべきではないか。」(同2・10)と信仰を保持します。
自分が病気になり、認知症になり、介護を受けて、恥ずかしいことがあっても、それを受け留めて神を讃美することができるかどうか。社会で失敗をし、犯罪者とされても、失業しても、生活に困窮しても、神をほめたたえることができるかどうか。
イエス様は、神でありながら、人として生まれることを受け容れました。お腹もすくし、便もする。疲れるし、眠りも必要とする。怪我もするし、攻撃も受け、批判もされる。そして、十字架刑にもされたのです。神の子が、人として最低の仕打ちを受けました。
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10・45)。神の御子が十字架に掛かったことが、自分の身変わりだと受け入れた人が救われるのです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(12)。どうしようもない罪人は、自分を義としてはいけないのです。
ヨハネの福音書1章1~14節
- 1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
- 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
- 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
- 1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
- 1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
- 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
- 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
- 1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
- 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
- 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
- 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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