「主を待ち臨め!」 イザヤ書40章22~31節

「主を待ち臨め!」 イザヤ書40章22~31節
イザ

40:22 主は、地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はバッタのようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。
40:23 君主たちを無に帰し、地をさばく者たちを空しいものとされる。
40:24 彼らが植えられ、蒔かれ、いよいよ地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを藁のように散らす。
40:25 「それなのに、あなたがたは、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と聖なる方は言われる。
40:26 あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない。
40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は【主】に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。
40:30 若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

現代社会において日本ほど、サタンの策略に惑わされ錯乱している国はないように思われます。自然災害や戦争そして犯罪の頻発の中で、他の国々においては、宗教が一層追及され、キリスト教もその中心となっています。

 政治の退廃は、どこの国でも酷くなっており、金持ちを含む指導層の搾取もすごいものです。ところが、日本では反発が起こっていません。却って、攻撃的になる人々を諫める風潮が強く、その一方、弱者や貧者の生活困窮は大きなものとなっています。何か、奴隷状態に慣れた奴隷のような様相が呈されています。

 社会の退廃は道徳的堕落から始まりますが、日米の性道徳の退廃ぶりは異常なものとなり、まるでソドムゴモラのようです。歴史は、そのような道徳的退廃をした国や都市は、間違いなく滅びていることを示していますが、世界的な道徳的退廃は神の裁きと終末を予想させます。道徳的退廃をした人々の特徴は、社会的責任や義務を果たさずに犯罪に加担していくことです。

 イザヤは、「災いだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」(1・4)と裁きを預言しています。政治家は、「お前の君主たちは強情者、盗人の仲間。みな賄賂を愛し、報酬を追い求める。みなしごを正しく裁かず、やもめの訴えも彼らには届かない。」(同23)。とまるで現代のように神の怒りを買います。

 そのような時、信仰者は集まり、「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちは、その道筋を進もう。それは、シオンから御教えが、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(2・3)、「ヤコブの家よ。さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。」と励まし合うのです。これが、時代と信仰者の構図です。

 多くの信仰者、クリスチャンが信仰を知的理解のものとしてきました。「『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることもないように。」(同6・9.10)。現代人は、物事を理解しようとします。それは自分が支配者になりたい誘惑です。でも、それでは信じ、従い、救われることはありません。クリスチャンも、日常的に神を信じることをせずに、物事を自分の思い通りに動かそうと考えています。それでは、感謝よりも思い煩いが多くなり、不平や不満が出てきます。

イザヤの時代は、残虐なアッシリアが世界を支配していました。南ユダの王アハズはアッシリアに迎合し、次のヒゼキヤ王はバビロニアについたのでアッシリアが責めて来ました。ヒゼキヤは、「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。」(イザヤ37・20)と祈り、「主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。」(36)と撃退します。

ヒゼキヤは、死の病にかかった時、「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目に適うことをしてきたことを。」(38・3)と大声で泣きながら祈ったので、主は癒されました。しかし、調子に乗って、バビロンの使者に宝物蔵の中身を全て見せてしまいました(39・2)。そして、バビロン捕囚が預言されるのでした(同6.7)。

要するに、ヒゼキヤ王の真摯な悔い改めも、実は自分の命を惜しむ打算の産物であり、39章の8節にあるように、自分の利益を目的としたものだったことが神の目には見えていたのです。

しかし、神は、「慰めよ、慰めよ。わたしの民を。」(40・1)と語り掛け、「草はしおれ、花は散る。しかし、私たち神のことばは永遠に立つ。」(40・8)と神の主権と選びを宣言するのです。

「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は【主】に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。」(27)。

人の道、信仰の道を頭で考える人々は、神を信じ続けることができないことが続きます。信じるということは、「主を待ち望む」ことです。

先週は、マイコプラズマが肺炎となり、眠ることができず、咳が続き、呼吸するとゼイゼイ言っていました。そして、抗生物質の影響もあり、自律神経がおかしくなって、立ち上がろうとすると目が回り、そのままベッドに倒れて吐いてしまうことが8回もありました。しかし、身体が異常になり、動けなくなる時に、平安と感謝が沸き起こりました。このまま不自由になり、願いが達成されなくても、死んだとしても、「我が人生に悔いはなし。神よ、私を迎えたまえ。」と確信があったからです。妻も子も、教会もクリニックも全て、主に委ねます、と目が回りながら、祈ったものです。

イザヤ書40章22~31節

  • 40:22 主は、地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はバッタのようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。
  • 40:23 君主たちを無に帰し、地をさばく者たちを空しいものとされる。
  • 40:24 彼らが植えられ、蒔かれ、いよいよ地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを藁のように散らす。
  • 40:25 「それなのに、あなたがたは、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と聖なる方は言われる。
  • 40:26 あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない。
  • 40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は【主】に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。
  • 40:28 あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
  • 40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。
  • 40:30 若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。
  • 40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。